ヤマアラシのジレンマ

Das Dilemma der Stachelschweine - 「心の家路」のブログ

自傷行為の嗜癖化プロセス:松本俊彦先生より

  • 投稿日:
  • by
  • Category:
自傷行為の嗜癖化プロセス:松本俊彦先生より
http://ameblo.jp/tochigi-akk-society/entry-10972388092.html

1. 自傷行為の嗜癖化プロセス

アディクションの本質は、エスカレートするなかで当初の目的を見失い、いつしか行為の主体性を失ってしまう点にあります。自傷行為にもそういった特徴が見られます。当初は自ら主体的に自傷行為をすることによって自分の感情をコントロールしていたつもりが、気がつくと、自傷行為にコントロールされ、振り回されている自分がいます。そのような観点から、私はかねてより「自傷行為の嗜癖化プロセス」なる臨床上の作業仮説を提唱してきました(松本と山口, 2005)。

以下に、この仮説について説明しましょう。

1) 自分をコントロールするための自傷行為

私たちの調査(山口ら, 2004: Matsumoto et al, 2008)によれば、自傷行為が開始される年齢はおおむね12歳頃です。ファヴァッツァらの調査(Favazza et al, 1989)では自傷行為の平均的開始年齢は12歳、ホートンら(Hawton et al, 2006)によれば11~13歳とされていることを考えると、国を問わず、小学生から中学生へと移行する思春期の始まる時期に自傷行為が始まるといえるでしょう。

では、最初の自傷行為はどのような経緯からなされるのでしょうか? 
これまで私は、自傷行為は決して失敗した自殺企図ではないと述べてきました。しかし、自身が行ってきた自傷者との対話を通じて、人生最初の自傷に限っていえば、実は自殺の意図があることが少なくない、という印象を抱いています。おそらくその致死性の予測は様々なだと思いますが、最初の自傷行為には自殺の意図があったと語る自傷者は意外に多いという気がします。

典型的な例を挙げてみましょう。たとえば、家庭や学校で繰り返し自分を否定される体験をしている子どもがいたとしましょう。それは、虐待やいじめといった明確な形かもしれませんし、試験で90点をとってもいつも「なぜ100点じゃないのか」と親から責められるような不明瞭なかたちでもよいでしょう。いずれにしても、「いまのあなたではダメだ」というメッセージであることには変わりはありません。

おそらくその子は、自らのことを「自分は要らない子」「余計な子」と認識していることでしょう。最初のうち、このつらい状況について周囲の大人の誰かに相談するかもしれません。しかし、大人たちは、「がんばれ」「おまえも悪い」「やられたらやりかえせ」とお決まりの反応をしたり、そもそも大人自身が自分の問題に夢中であるために、その子の訴えに耳を傾けられなかったりするかもしれません。やがて子どもは、「誰も信じられない」「もう誰にも助けは求めない」と思いに駆られ、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」という感覚がわき起こります。この感覚は、いわば消極的で漠然とした自殺念慮といってよいものです。この頃には、高いところに上るたびに、「ここから落ちたら(あるいは、飛び降りたら)、どうなるのだろうか?」などといった空想を繰り返するようになる子もいます。そして、あるとき忍耐の限界に達して、子どもは自殺の意図から刃物で自分を切るわけです。もちろん、その傷は、客観的には「馬鹿げたかすり傷」にしか見えない軽症のものですが。

いずれにしても、その自殺企図は、誰にも知られることのないまま行われ、やはり誰にも知られることのないまま失敗に終わったことになります。しかし代わりに、子どもはそれまで自分の胸を圧迫していた「心の痛み」が霧散しているのを――すなわち、自傷行為の持つ「鎮痛」効果を――発見します。「死にたいほどのつらさ」も、うまくコントロールできるわけです。おそらく子どもはこう思うのではないでしょうか? 「これさえあれば、誰の助けがなくても生きていける」。そして、生きるために――あるいは、死なないために――自傷をくりかえすようになります。たいていは、周到に人目を避けて、誰にも見つからないようにして自傷行為におよびます。これは、先述した「情動焦点型」の対処であり、いわば「自分をコントロールするための自傷行為」のはじまりです。

2) 自傷行為の治療効果減弱とコントロール喪失

しかし、自傷行為の「鎮痛」効果には、麻薬と同様、「耐性」を生じやすいという性質があります。当初は週に1回自傷すれば不快感情に対処できていたものが、次第にその効果が薄れ、3日に1回、毎日、日に数回という具合に、徐々に頻度を増やさなければならなくなるのです。しかも、「鎮痛」効果を維持するためには、より多くの場所に、様々な方法で自分を傷つける必要があります。そのため、手首や腕だけで足りなくなり、他の身体部位を切ったり、さらには、切るだけではなく、頭を壁に打ちつけたり、火のついたタバコを皮膚に押しつけたりする者もいるでしょう。なかには、より深く切らなければならなくなり、まれではありますが、「意図せず」致死性の高い身体損傷におよんでしまう場合もありえます。

もう一つ困ったことがあります。こうした対処を繰り返すうちにストレス耐性が低下し、以前ならば気にもとめなかった出来事にも不快感情が生じるようになってしまいのです。最初は、「生きるか死ぬか」といった苦痛に対して自傷行為という対処を用いていたはずが、いつしか「友人の態度がそっけなかった......嫌われているのかも」といったささいな出来事に対しても、自傷しないではいられなくなるわけです。この現象は、あたかも、手術後の激しい疼痛に対して鎮痛剤を用いた人が、いつしかその鎮痛剤を常用するようになり、朝、目が覚めたときに「なんとなく頭が重い」だけでも鎮痛剤が欲しくなるのに似ています。

このようにして、自傷行為の治療効果が減弱する一方でストレス耐性が低下する事態を呈すると、自傷行為にはもはや自分をコントロールするパワーがなくなってしまいます。すなわち、いくら切っても埋め合わせがつかない状態――「切ってもつらいが、切らなければなおつらい」状態に陥るわけです。これは、アルコール依存症患者が呈する連続飲酒発作と同じ、コントロール喪失の状態といえます。ファヴァッツァのいう「反復性自傷行為」は、まさにこのような状態を指しているといえます。

この段階に到達した自傷者がとる行動は次の二つのいずれかであることが多いように思います。一つは、不快感情を軽減もしくは「リセット」する方法として、過量服薬――この時期にはまだ精神科に受診していない人が大半なので、通常は、市販されている鎮痛薬・感冒薬などを過量摂取します――のような他の様式に移行するというものです。もう一つは、さらに自傷行為に固執して、周囲にこの秘密の儀式が露見するという事態です。

3) 周囲をコントロールするための自傷行為

自傷行為に対するコントロールを失い、むしろ自傷行為にコントロールされる状況になると、自傷者には、もはや周到に人目を避けて自傷する余裕を失います。まもなくゴミ箱に無造作に投げ込まれた血のついたティッシュ、あるいは、洋服で隠せない場所につけた傷などが家族や教師の目に触れることとなり、彼らの秘密の儀式は露見してしまいます。当然ながら周囲は騒然とし、これを機に何らかの専門的援助につながります。彼らが精神科医療機関やカウンセリング室に訪れるのは、通常はこの時期です。

皮肉なことに、自傷行為は発見されることで、再びそのパワーを取り戻します。そのパワーとは、精神的苦痛に対する直接的な「鎮痛」効果ではありません。「余計な子」「要らない子」というアイデンティティを持ち、「いなくなってしまいたい」「消えてしまいたい」と感じている彼らが、自分の存在価値や重要他者との絆を確認することを通じて間接的に得られる「鎮痛」効果なのです。というのも、彼らが自傷をしたりしなかったりすることで、家族や友人、恋人、さらには援助者(精神科医やカウンセラー)を一喜一憂させ、自分から離れていこうとする人との絆を一時的な回復させることができるからです。周囲の人間は、彼らに注目し、まるで腫れ物に触るように接することを強いられ、いつもならば口をついて出てしまう非難や苦言も飲み込むことを余儀なくされます。

要するに、彼らは自傷行為を通じて家族内ヒエラルキーにおける下克上を実現できるパワーを手に入れるのです。そして、そのパワーに「酔う」ことで、彼らは自らの内にある「いなくなってしまいたい」「消えてしまいたい」という気持ちから意識をそらします。この段階は、まさに「周囲をコントロールするための自傷行為」といえます。なお、従来、境界性パーソナリティ障害に特徴的とされる「演技的・操作的な」自傷行為は、この段階で見られる自傷行為を指していると思われますが、注意すべきなのは、自傷行為は最初から演技的・操作的な目的からされるのではなく、あくまでも経過のなかで二次的に出現してくれるものだということです。

この「周囲をコンロトールするための自傷行為」の時期はあまり長くは続きません。自傷行為を発見されることで得られたように見えた周囲との「絆」は、たいていの場合、一時的なものにすぎないからです。家族、あるいは友人や恋人は、自傷することにもしないことにも、驚くほど早く慣れてしまいます。自傷行為にふりまわされることに疲れはてた家族、さらには援助者までもが、次第に自傷行為に対して冷淡な態度をとるようになっていきます。「死ぬ気もないくせに」「好きで切っているんだから」「自分で救急車を呼べば」などの辛辣な言葉が浴びせられることもあります。

これはきわめて危険な状況です。この段階にいたると、自傷行為には自分をコントロールすることも、周囲をコントロールすることもできなくなっています。自傷者は完全に無力化され、「要らない子」「余計な子」という否定的な自己イメージがわき起こり、これまで自傷行為に「酔う」ことでそこから意識をそらしていた「心の痛み」――すなわち、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」――が再び彼らを苛み、最初の自傷行為のときに存在していた自殺念慮が明確に意識されるようになります。もしもすでに精神科に通院している場合には、自殺の意図から、処方された向精神薬を過量服薬することでしょうし、過量服薬する薬がなければ、別の自己破壊的な手段をとるかもしれません。考えてみれば、彼らは自殺の意図から行った最初の自傷行為から、様々なプロセスを迂回して再び最初の場所に戻ってきてしまうことになります。

2. 自傷行為から自殺企図へ

1) 生きるための自傷行為が「死」をたぐり寄せる

ある17歳の女性患者は、両親からのネグレクトや学校でのいじめといった苛酷な環境を生き延びるために、11歳から自傷行為を始めましたが、いろいろな経過から15歳で自傷行為をやめようと決意して、自分なりに努力をして少なくとも2年間はやめ続けていました。彼女は、自分が自傷行為をやめようと思ったきっかけについて、次のように私に語ったことがあります。

「自傷行為をしている人は、他の人から自分を否定されてきた方が多いと思います。私もそうでした。『生きるために自傷しているのだから、それを止める権利は誰にもない』。家族や医者から『やめなさい』といわれるたびに、私はそう思ってきました。ただ、自傷行為をしていると、必ず先には死が見えて来てしまうんです。だんだん痛みに慣れていって、大量の血にも動じなくなってしまうんです。最初はそんなこと考えなかったのに、いつのまにか死への憧れみたいなものに少しずつ囚われている自分に気づいたんです。悩んで苦しんで、それでも『頑張って生きよう』『絶対に死なない』と強く思って始めたはずの自傷行為が、死に繋がってしまうのはあまりにも悲しい......そう思ってやめようと決心したのです」

私は、嗜癖化した自傷行為がエスカレートした果てに行き着く先は自殺であると考えています。私たちの研究では、精神科通院中の女性自傷患者のうち、18.9%が1年以内に医療機関で治療が必要なほど重篤な過量服薬を行っており(松本ら, 2006)、22.4%が3年以内にきわめて致死性の高い手段・方法で自殺企図におよんでいることが明らかにされています(松本ら, 2008)。また、オーウェンズら(Owens et al, 2002)らのメタ分析によれば、十代のときに自傷行為を行った若者が、10年後に自殺既遂で死亡している確率は、400~700倍に高まるといわれています。このことは、自傷行為は、その行為だけを見れば、様々な点で自殺企図とは異なりますが、しかし、長期的には自殺の危険因子であることを示しているといえるでしょう。

確かに、習慣的に自傷行為を繰り返している人たちのなかには、「生きるためにしている自傷している」と語る者も少なくありません。しかし、考えてみれば、「生きるために」自分を傷つけなければならない事態とは、それ自体、相当に危機的な状況なのではないでしょうか? そして、その危機的な状況を生き延びるために、一見すると、たわいない行動を繰り返して一時しのぎを続ける。あたかも破産寸前の経営状況を怪しい金融業者からの借金でしのいで破産を回避し続け、気づいたときには当初の何倍もの莫大な借金に膨れ上がってしまうように、「生きるため」の自傷行為を繰り返すことで、かえって死をたぐり寄せている可能性があるとはいえないでしょうか?

2) 死への「迂回路」としてのアディクション

私は、「生きるため」の行為の反復が結果的に死をたぐり寄せている、という現象こそが、実はアディクションの本質ではないか、と考えています。

アルコール依存症を例にとってみましょう。メニンガーはかつてアルコール依存症のことを「慢性自殺」と呼びました。その言葉は、いますぐ自殺してしまうことを回避するために(=生きるために)、ゆっくりと自分を傷つけて延命を図る行為を意味していました。しかし、自殺予防の専門家のあいだでは、アルコール依存症はうつ病と並んで自殺と密接に関連する精神障害であることが知られています。

このあたりのことを、アルコール依存症専門医である辻本士郎(2009)は、親しみのある言葉で巧みに語っています。「飲んでいる人は、心が死に向かっています。生きたいのと死にたいのと、両方あるんですよ。/生きることと、死ぬこととの、真ん中のようなところにいて、最初はなんとか生きていくために飲んでいたのが、飲むためにさまざまな努力をしたり、抵抗したりしているうちに、ただ飲みたいだけになってくる。だんだんと、生きるために飲んでいるのか、死ぬために飲んでいるのか、わからへんようなってくる。/もう死んでもええわ、どうでもええわ、と思いながら、飲んでいる部分がある。俺から酒をとったら何が残る、というのはこの段階です。/酒は疫病神だとわかっているけれども、もうこの疫病神と一緒でいいやという気持ち、それが『慢性自殺』です」。

中高年の男性たちが、日々の生活から生じる「心の痛み」を誰にも相談せずに、アルコールで蓋をしてどうやらこうやらその日を生き延びる。しかし、そんな一時しのぎをしたところで、「心」に痛みをもたらす根本的な原因は何も変わっていない。それどころか、問題はますます巨大かつ複雑になり、気づくとアルコールに溺れている自分がいて、どうにも引き返せない。このように、生き延びるためのアルコールが皮肉にも死をたぐり寄せる可能性があります。あるいは、最近十年あまりの中高年男性の自殺の背景にも、うつ病だけでなく、こうしたアルコールの問題が潜んでいるのかもしれません。

いずれにしても、アルコール依存症であれ、自傷行為であれ、その瞬間を生き延びるためのアディクションは、最終的には「死」への迂回路にすぎない場合が少なくないように思います。

3) 「感情語」の退化

自傷行為による「身体の痛み」には、一時的に「心の痛み」を抑えるという不思議な鎮痛効果があります。そして、これまで述べてきた通り、ある種の人たちはきわめて速やかにその「身体の痛み」に慣れていき、より強烈で新鮮な「身体の痛み」を求めて自傷行為が嗜癖化します。その嗜癖化プロセスの果てに自殺念慮が高まったり、自殺企図におよんでしまうのはなぜでしょうか?

私は、自傷行為によって「心の痛み」を言葉にしないで「身体の痛み」で抑えつけることは、自分の感情を無視し、「何も感じないようにすること」「何も起こらなかったことにすること」だと考えています。実際、自傷を繰り返す患者の治療をしていると、そのことを痛感させられます。たとえば、毎週の面接の最初に、私が「この一週間、調子はどうだった?」と質問するとしましょう。すると、患者は、「別に何も......」「変わりなかったです」「普通でした」などと答えるわけです。でも、そんなはずはないだろうと思うのです。現に、彼らの腕には多数の新しい傷跡が追加されているのです。いくら「アディクション」になっているからといっても、何もないのに切るはずはありません。そこで、時間をかけて1週間の様子を思い出してもらうと、やはりいろいろとつらい感情に襲われるような体験をしているのです。しかし、そんなとき自傷すると、つらい感情も、その感情の原因となった出来事の記憶も忘れてしまいます。自傷行為におよんだ後では、自分が何に傷ついて自傷したのかを思い出せなくなっているという人がけっこういるのです。

自傷者は、単に自分の皮膚だけを切っているわけではないのです。皮膚を切る瞬間に、つらい出来事の記憶もつらい感情に襲われたことも、自分の生活や人生から「切り離されて(=cut away)」されてしまうわけです。あるいは、こういいかえてもよいでしょう。自傷行為とは、あたかも「臭いものに蓋をする」ように、「身体の痛み」を使って「心の痛み」に蓋をして、「何も起こらなかった」「何も感じなかった」ことにしてしまうことなのです。

このようにして、次から次へと「心の痛み」に蓋をしていく行為をくりかえしていると、どうなるでしょうか? たとえば、誰かから手ひどい侮辱を受けたとき、「悔しい」「悲しい」「ぶっ殺してやりたい」などといったつらい感情を自覚するよりも早く、自傷行為を用いて、すばやく心のなかにある「汚物入れ用バケツ」に蓋をしてしまうわけです。そのすばやさは、それがどんな感情であったのかを確認する暇さえないほどです。そして、その結果、自傷者の心のなかではある変化が生じます。すなわち、「自分はいま怒っている」「自分はいま傷ついた」などといった感情語が退化し、体験する感情に名前を与えられず、自分がいまどんな感情を体験しているのかを把握できなくなるのです。もはやその人は、自分が何に傷ついて自傷したのか、思い出せなくなっていることでしょう。

4) 自殺念慮の出現

感情語が退化してくると、心はあたかも「仮死状態」となったかのように無反応を呈します。悔しい出来事、腹立たしい出来事、あるいはショックな出来事に遭遇しても、何も感じないし涙も出てこなくなります。実際、「もう何年も泣いたことがない」という自傷者は意外に多いのです。

もちろん、この仮死状態のおかげで、何が起きても傷つかないですむというメリットはあります。しかし、その代償は高くつくというべきでしょう。というのも、つらい出来事があっても、何の感情も沸かなくなり、ただ唐突に自分を切りたい衝動や焦燥感が異様に高まるだけの状態に陥ると、あっという間に自傷行為に対するコントロールが聞かなくなってしまうからです。それにまた、例の「汚物入れ用バケツ」に投げ込まれた、名前を与えられていない感情は次から次へと蓄積し、あふれ出さんばかりになっています。そうなると、いくら上から蓋を押さえも、それに対抗してあふれ出そうとする勢いを抑止することはできず、一部があふれ出てきてしまうわけです。

自傷行為を繰り返す人は、しばしば突発的に、あるいは、ほんのささいなきっかけから、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」という、漠然とした、消極的な自殺念慮を感じることがあります。実は、それは、いくら蓋をしても抑えきれずに「名無しの感情」があふれ出ていることを示すサインなのです。さらに、あふれ方が強くなれば、「死にたい」という、より明確な自殺念慮として自覚されるでしょう。要するに、生きるために感情を抑えつけ、感情語を退化させていくことが、最終的にその人を「死」へと近づけてしまうのです。

要するに、自傷行為は自殺企図とは異なるが、しかし同時に、それは、長期的には自殺につながる自殺関連行動でもある、ということなのです。ウォルシュとローゼンは次のように述べています。「自傷行為を繰り返す者の多くは死ぬために自分を傷つけているわけではないが、傷つけていないときには漠然とした『死の考え』にとらわれていることが少なくない。そして、あるとき、いつも自傷に用いているのとは別の方法で、自殺企図におよぶ」。さらに、自傷行為が持つ治療的な効果が消失してきた場合には、特に自殺の危険が高まっている可能性があるとも指摘しています。

実際に対応したことのある援助者ならば知っているはずですが、確かに、自傷行為におよんだ者が、傷の手当てを求めて学校の保健室や救急外来を訪れるときには、たいてい、「切っちゃった」などとケロリとした態度で話し、どこか深刻味のない、落ち着いた様子でいるものです。この深刻味のなさが援助者をして油断させますが、この段階で丁寧に対応することこそが大切なのです。

逆にいえば、もしも自傷者が「まだ切りたい!」「お願い、いますぐ切らせて!」などと切迫した様子を見せている場合には、自傷行為の治療効果がかなり弱まっている可能性があります。自殺の危険に関する慎重な評価を行い、緊急対応の是非について検討する必要があるでしょう。

トラックバック(0)

コメントする