中井久夫『世に棲む患者』対話編「アルコール症」 2

「どうして地域によって違うのだろう?」

「それはわからないね。緯度の高いところほど強い酒を飲むという原則も日本にあてはまらないね。蒸留酒の技術がポルトガルかオランダだか、ミャンマーからマレイシアだか、とにかく南西の方角からやって来て、まず八重山群島、それから琉球本島、そして薩摩にはいったという事情もあるだろうがね」

「よくいわれるのは、酒を飲む地方と飲まない地方の差がかなりはげしいこと、それから、同じアルコール消費量でありながら、東北と九州および高知とではアルコール症発生率が非常に違うこと。これは社会精神医学が取り上げて調べているみたいだが、要するに文化の相違だろうね」

「世界的にも文化によって酒に対する態度は幅があるだろう」

「そう。イスラム圏は酒を飲まない。インドネシアだと薄いビールはいいらしいが、アラビアでは酒類は禁止で、重い罰を受ける。ヒンドゥー圏も禁酒地域だが、罰はどうかな。アメリカ、西欧、中国ではお酒を飲むのはいいが、酔っぱらうのは社会的に排斥される。もっとも、コーカシアンはアルコール分解の過程でアセトアルデヒドの加水分解酵素を皆持っているが、日本人は持っていない者も多いらしいね。あるいは能率のわるい酵素(アイソザイム)しか、ね。日本人が酔っぱらいやすいのには生理学的な根拠があるわけだ」

「しかし、外国のアルコール症にくらべると日本のアルコール症はかわいいものだというね」

「ほんとうのところは知らないのだけれど、アメリカでは、ドランカードとコミー」は職が得られないというね。コミーとはコミュニストのことだが。だから、アルコール症の人は失業してますますアルコールに溺れてゆくという悪循環があるだろうね。サウディアラビアなんかはアルコール販売が死罪じゃなかったかな。あすこのアルコール症ほどひどいのは見たことがないと実見した精神科医が言っていたね。地下室で酔いつぶれているアルコール症者の群――」

「ハワイで、カナカ族の、高見山みたいな大きさの青年が、そう、ダイアモンド・ヘッドの少しワイキキ寄りの誰もいない浜で、真昼だった、仁王立ちになって海のほうをぐっと見つめていた。よく見ると、足元のアイスボックスから罐ビールを取っては一息に飲み干してポーンと海に空き罐を投げる。いつまでも、いつまでもそうしていた。雄々しくてとても孤独な感じだった。日本のアルコール症の崩れた甘えた感じから遠かったな」

「眼に浮かぶようだな」

 

「一休みしたいね」

「ああ、少し疲れた」

「話が世界に広がりすぎたかな」

「うーん、私の言いたかったのは、アルコール症は地域によって違うということなんだ。それから、階級によっても違う」

「アルコール症の治療者も地域によって違いそうだね」

「多分そうだろうね。碇さんの宴会療法は他地方では実践しにくいだろうね。それは患者側だけじゃない。精神科医の側にも九州には骨太の実践的精神があるように思うね」

「そうだね。けれどもそれだけじゃなくて、あれは難しいアルコール症の治療に挑戦したという、地域を超えた意義があると思うな。つまり家族から見放され、友人もなく、趣味もなく、野球や相撲にひいきのチームや力士があるわけでもなく、酒の種類や銘柄はおかまいなしで、ひたすら麻痺と意識混濁を目指す、そういう患者は治療が困難だと君が書いたことがあるね。それを碇さんは読んでおられると聞いた。これにヒントを得てひとつ挑戦してみようとしたんじゃないかな。そういう例はまわりにいっぱいいたろうしね。あの試みは困難な例の治療に初めて道をつけたといえると思う」

「私が挙げた中で「家族が見放していず、友人と飲むことが多く」ということはどこか人間的魅力があるということだね――、「何かの趣味があり」――世界に向かって部分的にせよ開かれているということだ――「野球や力士にひいきがあり」――ということは同一視する対象があるということだね――、「酒は何で、銘柄が何という好みがあり、ほろ酔いを楽しむことができる」、こういう条件の全部が揃っていたらアルコール症にならないだろうが、多いほど治療がしやすいのは当然で、こういう条件の多くを充たしている患者しか結局は治療になっていないね、残念だけど」

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