中井久夫『世に棲む患者』対話編「アルコール症」 3

「その範囲できみが書いている経験をもう一度述べてくれないか」

「繰り返しは残念だけど、新しい体験に乏しいから、そうするよりないな。私が最初になるほどと感心したのは、ヴァルター・シュルテという南ドイツはチュービンゲン大学の教授でもう亡くなった人の指摘。独特の恥辱感あるいは劣等感――ひがみというか――がアルコール症の人にあるということだね。彼は、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の中の「アル中の星」を例に挙げている。アル中は王子さまに「ああ恥ずかしい、恥ずかしい」「何がそんなに恥ずかしいのですか」「アル中であることが恥ずかしいのです、ああ恥ずかしい」と言ってアル中はまたぐいと一杯ひっかけましたとさ、という話だ。恥の文化とか罪の文化とかいうけれど、これで見ると西欧でもアルコール症者は恥の文化だな。私は、この恥意識に注目して対応の仕方を考えた。もう一つはかねていわれているのが、アルコール症の人はブラック・ユーモアを使うし、わかるということだね。ユーモアがわかるのなら、これを放っておく手はあるまいと思ったのさ」

「両者は無関係じゃないね。恥にまみれた自分をユーモアで捉えるということは、ひとつの健康化への試みだろう?」

「ユーモアの極致は、例の『宝島』のスティーヴンソンの『ロバを連れての旅』だということを昔読んではっとしたことがある。南フランス旅行の話だが、昔のこととて荷物をロバに積んで行く。ロバがぬかるみに足をとられて倒れる。民衆は見ているけれど、手を出さない。こちらはあれこれ意志を通じさせようとやってみるけど、だめだ。この旅行記がユーモアの極致だというのだね。つまり、惨めさの中にある自分を距離を置いて眺めるということだ。これは成熟した態度だけど、アルコール症の人に話すユーモアはだじゃれ程度でいい。あまり深刻なのはどうかな。治療者からは、相手ほどブラックでないユーモアを返す」

「どういうふうに?」

「いや、むつかしいことじゃない。酒というかわりに「米の汁」でいいんだ。それだけでアルコール症の人は治療者の「武士の情」を感じるはずだ。入院治療でも最初が肝心で、家族に「簡単だが実行はなかなか難しいことを一つ守ってくれますか」と言い、これに同意するのを入院の条件とする。当方が引き受けるまでに言わないと、家族は真剣に聞いてくれない。それは人情だから、必ず、同意してもらってから治療を承知する。それまでなら家族は「治るためなら何でもしますから」と言うからそのうちが花だね。もっとも、その時も「それで必ず治るとまでは言えないけれど、少なくとも実行してくれるのとくれないのとでは大違いだと思う」と言って、安請け合いはしない。お願いするのは「恥をかかさないこと」で、「むろん酒飲みへのいろいろな説教はみんな恥をかかせるようになっている。それで治る人もいるだろうけれど、そういう人ならここまで来ていない」と言い、「酒を止めてえらいね」という言葉でも、「どうせ俺はそれぐらいしか褒められることのない奴さ」とひがんでしまうという話をする。また、私も患者が聞きあきたような説教はしないという。実際、それは同じ穴に何度も釘を打つようなもので、だんだん力を強くしないと同じ効果が得られない。強くすると副作用、反作用が大きくなる。これは、一般にスパルタ的といわれる方法の欠点だね。ハト派のやり方は手ぬるいかもしれないけれど、何度でもやりなおせる。七転び八起きってわけだ。実際、このせりふは口癖のように使ってもいい。しかし、たいていは患者の側に初めて聞くという驚きがないと治療的な対話にはならないものだ。「またか、この先生も同じことを言う」と落胆するだけだ。この患者がまだ聞いていないことはどういうことだろうと考えをめぐらすことが、治療者の進歩になる」

「新しい内容なんてなかなか思いつかないだろう」

「いや、たとえば、患者が私は酒が好きで、といったら、いや、きみは米の汁が合わないと答える。どうして、と聞かれたら、何でもやりだしたらやめられないものはその人に合っていない、と言い、誰れでも苦手なものが一つや二つはあるものだと言う。そういう問答でも結構耳を傾けてくれるよ」

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