チェルノブイリの健康被害、最も深刻なのは精神面への影響

海外論文ピックアップ Lancet Oncology誌から
チェルノブイリの健康被害、最も深刻なのは精神面への影響
エビデンスありは小児の甲状腺癌のみ
大西 淳子=医学ジャーナリスト
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/hotnews/lancet/201105/519693.html魚拓)(魚拓2)(魚拓3

 チェルノブイリ原子力発電所の事故が住民の健康に及ぼした影響を長期にわたって評価してきた米Roswell Park Cancer InstituteのKirsten B Moysich氏らが、2011年4月26日付のLancet Oncology誌電子版にコメントを寄せた。同氏らは、自らの研究も含めてこの事故の健康被害の正確な評価が非常に難しいことと、その理由を説明した。さらに同誌のエディトリアルは、同日付で、チェルノブイリの事故が住民の健康に及ぼした最大の影響は精神面に表れたという報告を紹介している。

乳癌や小児の白血病増加の疫学調査は設計に問題

 Moysich氏らは、チェルノブイリ事故を以下のように概説している。

 1986年4月25日、チェルノブイリ原子力発電所の4号炉では非常用の電源システムの実験が行われようとしていた。この原子炉は、現在では使われていない旧式の黒鉛減速軽水冷却炉だった。実験のために不安定な状態に置かれていた原子炉は、実験開始をきっかけに急激に出力を増したが、原子炉冷却用の水は失われた状態にあり、過剰な発熱が生じて、4月26日未明に水蒸気爆発と炉心溶融に至った。

 福島第一原子力発電所と異なり、格納容器を持たなかったチェルノブイリ原子炉では、続く圧力容器の爆発によって大量の放射性物質が拡散した。大気中に放出された核燃料は8~180トン、核分裂生成物(放射性物質)は30億~90億キュリーと推定されており、それらは風に乗って北西方向に飛散した。事故後数日間、正確な線量測定が行われなかったため、放出された放射性物質の正確な量を知ることはできない。

 爆発により数人の作業員が死亡し、消火に当たった消防士100人が大量の放射性物質に曝露した。黒鉛は10日間燃え続け、放射性物質の放出は約20日間続いた。100~200人が急性放射線症候群と診断され、うち約30人が早期に死亡した。その後10年間にさらに14人が死亡している。

 事故の際に放出された核種は主に放射性のヨウ素131とセシウム134、セシウム137だった。ほかに、放射性のストロンチウム89とストロンチウム90、プルトニウム234も放出されている。ヨウ素131の半減期は8日と短いため食物連鎖の中に入り込んでも短期間のうちに減衰する。だが、セシウムの半減期は2年から30年と長く、非常に広範囲にわたる汚染が発生した。ストロンチウムは半減期が52日から28年で、セシウムと同様の長期的な汚染を引き起こした。

 事故によって放出された放射性物質の量は広島に投下された原爆の400倍だった。だが、実は、1950年代から60年代にかけて行われた核実験では、チェルノブイリ事故の100~1000倍の放射性物質が放出されたと著者らは言う。

 チェルノブイリから放出された放射性物質の影響が最も大きかったのは、ロシア、ウクライナ、ベラルーシだった。汚染が最も深刻だった近隣地域では住民27万人が軽度から中等度の曝露(被曝線量にすると5~500mSv)を受けた。

 チェルノブイリの事故がその後の癌罹患率を高めたかどうかを調べた論文は数多く存在する。著者らは、国連が最初に公表したチェルノブイリリポートの作成に参加し、02年には、それまでに報告された研究を対象に疫学的レビューを行ってLancet Oncology誌に報告している(概要はLancet誌のWebサイト参照)。著者らはこの時点で、小児の甲状腺癌を除いて事故後に癌の罹患率が上昇したことを示す強力なエビデンスはないと結論していた。

 著者らと同様に、チェルノブイリ事故による汚染と小児の甲状腺癌の関係を示した2件の集団ベースのケースコントロール研究はいずれも、対象となった個々の小児の被曝線量を詳細に調べ、十分に選び抜かれた精巧な統計学的アプローチを用いて分析していた。それ以前に提供されていたエビデンスと組み合わせると、チェルノブイリ事故の結果として小児の甲状腺癌罹患が増えたという結論に疑問を差し挟む余地はなく、得られた知見は、チェルノブイリ事故と同様の事態が発生した場合に安定ヨウ素剤を配布、使用を促すかどうかの判断に利用できる、と著者らは述べている。

 一方で著者らは、チェルノブイリ事故による健康被害を評価する際に直面する壁について論じている。著者らが05年に報告した、小児の白血病がベラルーシ、ウクライナ、ロシアで増加している可能性を示した研究結果(概要はInternational Journal of Epidemiology誌のWebサイトを参照)については、試験設計に問題があったことを認めた。分析対象となったコントロールの小児の多くが事故による汚染がなかった地域から選ばれていたため、分析によって示された事故後の白血病リスクの有意な上昇は納得のいくものではないという。さらに、旧ソ連の構成国で疫学調査を行うことの難しさが正確な評価を妨げた。当時、それらの国は長期的な疫学調査の経験をほとんど持っていなかった上に、言語の壁は厚く、文化的な差は大きかった。さらに調査の対象地域が非常に広範で、全てをカバーすることが困難だった。著者らは、それらの問題も含めて試験設計に欠陥があったと考えている。

 また、ベラルーシとウクライナでは乳癌の罹患率が上昇したという報告があるが、記述疫学研究の結果であること、この研究が居住地域の汚染度に基づいて患者の曝露放射線量を推定していたことから、乳癌との関係については今後再評価が必要としている。放射線曝露による肺癌リスク上昇を報告している研究もあるが、やはり試験設計上の欠陥がデータの信頼性や正当性を脅かしている上に、喫煙の影響を放射線曝露の影響から完全に切り離すことは不可能との見方を示した。

 福島原発の今後について、著者らは、放射性ヨウ素とセシウムへの曝露を最小限に抑えるための努力の重要性と、汚染地域の隔離の必要性を強調した。

 著者らは、「痛ましいことではあるが、日本で進行中の原子炉事故は、放射性物質への曝露が癌リスクに及ぼす影響を評価するための新たな機会を提供する。日本は放射線疫学研究の長い経験を持つため、適切な調査を行うことができるはずだ。チェルノブイリ後の疫学調査を難しくした大きな要因の1つがソ連の崩壊を中心とする政情不安だった。日本は、地震と津波、そして原発事故を経験しても、政治的にも経済的にも安定しており、原発事故が健康に及ぼす影響の総合的な調査が可能と期待される。得られるデータは、今後そうした事故が発生した場合に国民に正確なリスク予測を伝えるため、また、公衆衛生担当者が有効な介入を行うために役立つはずだ」と述べている。

 原題は「25 years after Chernobyl: lessons for Japan?」、全文が、Lancet誌のWebサイトで閲覧できる。

見逃されがちな住民への心理的影響
 Lancet Oncology誌のエディターは、同じ4月26日に電子版で公開されたエディトリアルで、以下のように述べている。

 原子炉事故後、長期にわたって懸念される最大の健康被害が癌の罹患だ。原爆の生存者や被曝事故の被害者を対象とする研究で、放射性物質への曝露と白血病その他の固形癌(甲状腺癌、消化器癌、乳癌、肺癌など)が関連付けられているが、周囲の立ち入り禁止区域が適切に設定されれば、そうしたリスクを負うのは原発作業員にほぼ限定されるだろう。

 原子炉を冷却するために使用された放射性物質を含む水が海に放出されたため、海産物の汚染が懸念されている。また、農作物や水道水の汚染も報告された。福島原発から放出された放射性物質は世界各国で検出されており、米国でも大気、雨水、牛乳からヨウ素131が検出されたが、米国当局は、検出レベルは低く、国民の健康に悪影響を及ぼすことはないと強調している。

 日本政府と東京電力は、特に事故後初期に正確な情報提供を行わなかったとして批判されている。政府が4月12日に、国際的な基準に基づく事故の評価をスリーマイル島の原子炉事故と同じレベル5からチェルノブイリと同一のレベル7に引き上げたことについても、遅すぎたとの非難を受けている。

 だが、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は、福島の事故は、環境への影響という観点からはスリーマイル島とチェルノブイリの事故の中間に位置するもので、住民の長期的な健康被害が深刻になることはないとの予測を示している。

 チェルノブイリと比較して住民が不安になるのも無理はないが、チェルノブイリの事故の健康への影響については一致した見解は得られていない。UNSCEARは08年に、小児の甲状腺癌の6000例超はチェルノブイリの事故に関連付けられると結論したが、他の癌については事故との関連を示す明確なエビデンスはないと報告している。一方、民間団体のグリーンピースは、事故に起因する過剰な癌罹患者は9万3000例を超えるだろうとの予想を示している。

 日本では福島原発周辺の住民に対する甲状腺被曝のスクリーニングが行われているが、これまでのところ危険なレベルに達している人は見つかっていない。

 なお、原子力事故の心理的負荷は見逃されがちだが、実は国際原子力機関(IAEA)は91年に、チェルノブイリ事故の精神面への影響は生物学的なリスクに比べ非常に大きかったとの結論を公表している。国連のチェルノブイリフォーラムも、事故の最大の影響は住民の精神的健康面に認められ、放射性物質曝露が健康にもたらすリスクに関する情報が適切に提供されなかったことによって被害はさらに深刻になったと述べている。

 福島原発事故の長期的な転帰は明らかではないが、今後数年間、放射線量を監視し、適切な安全策を実施し、住民を支援するためには、正確な情報の広範な提供は必須だ、と著者らは述べている。

 エディトリアルの原題は「Japan's nuclear crisis」、全文が、Lancet誌のWebサイトで閲覧できる。

参考リンク:
チェルノブイリ20年の真実
事故による放射線影響をめぐって
http://www.aesj.or.jp/atomos/popular/kaisetsu200701.pdf

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