ヤマアラシのジレンマ

Das Dilemma der Stachelschweine - 「心の家路」のブログ

依存症の回復者カウンセラーの落ち入りがちな陥穽

臨床心理士・信田さよ子 あなたの悩みにおこたえしましょう
 「一冊の本」(朝日新聞出版)より
https://aspara.asahi.com/column/nayami-okotae/entry/nx7qQGEqiI?atoken=ooMYMQxENI5H24Ap5ijxF3cF1Ia7a874

夫婦、親子、恋人、友人......。だれしも人にはなかなか相談できない人間関係についての悩みを持っているものです。経験豊富なカウンセラーが、その解決方法やヒントを示します。

Q:困っている人の役に立ちたいのです ヨウコ、57歳

 私には31歳の息子と26歳の娘がいます。息子のほうは中学校からいわゆる登校しぶりの状態が続き、高校中退後は通信制高校に入り直しました。その後もいろいろありましたが、5年間の引きこもり状態の末にやっと昨年からNPO法人が主催する自立支援施設に通うようになりました。娘のほうは息子とは対照的に高校時代から家出を繰り返し、しばらくはキャバ嬢として働いていました。年に数回しか家には戻らず、ケイタイの番号だけが消息を知る手段でした。昨年3月の震災の時にはさすがに電話をしてきましたが、皆の無事を確認すると再び音信不通になりました。先日、予告もなくひどく痩せて戻ってきたので、薬物に手を出しているのではと内心疑いましたが、娘によれば、三陸沿岸の被災地に住み込み、ある団体のお手伝いをしているとのことでほっとしています。

 夫の定年を来年に控えたいま、指折り数えると、20年近い歳月を子どもの問題に費やしてきたことに気付かされます。数多くの精神科医やカウンセラーにも出会ってきました。そんな私だからこそできることがあるのではないかと思うのです。幸いにも身体は丈夫で、エネルギーや気力は若い人に負けないほどです。私と同じ悩みを抱えた人たちに、こんな私の経験がお役に立てるのではないでしょうか。図々しいお願いですが、信田さんのカウンセリングセンターのお手伝いをさせてもらうことは可能でしょうか。もし無理であれば、どんな勉強をすればカウンセラーになれるのか教えて頂ければさいわいです。残された人生を、多くの困っている人たちのために役立てて過ごしたいのです。

A:臨床心理士とは?

 長いあいだ二人のお子さんの問題に取り組んでこられたのですね。文面には書き切れないようなご苦労もあったかと推察いたします。とりあえず余裕をもって生活できる状態にまでこぎつけられたこと、本当によかったですね。

 さて、ヨウコさんの質問は二つありますので、一つずつお答えしようと思います。

 一つめのご質問ですが、残念ながら私たちのカウンセリングセンター(以下センターと略)では、「お手伝い」をするスタッフを必要とはしていません。センターのスタッフは臨床心理士の資格を取得していることが条件です。スタッフの構成ですが、現在常勤・非常勤の合わせて13名の臨床心理士(全員女性)がカウンセリングを行っています。また3名の女性が受付業務に就いていますが、彼女たちも臨床心理士を目指して勉強中です。

 二つ目のご質問への答えにもなりますが、臨床心理士という資格について簡単に説明しましょう。現在この資格は「日本臨床心理士資格認定協会」という団体によって認定されていますが、国家資格ではありません。長年国家資格を目指してきましたが、まだ実現していないのは本当に残念です。

 資格取得までの道をざっと書きましょう。まず臨床心理学系の大学・学部を卒業し、さらに認定協会指定の大学院修士課程で2年間勉強をします。さらに実習を最低1年経験して初めて受験資格を得ることができます。試験は、筆記試験で一定程度の足切りがあり、さらに面接をクリアして初めて合格となります。正直申し上げて、かなりの難関だといっていいでしょう。ヨウコさんの年齢を考えますと、これから臨床心理学の勉強を始めるのはかなり困難かと思われますがいかがでしょう。

どんな可能性があるのか?

 では、ほかにカウンセラーになる道はないのでしょうか。すでに申し上げたように、臨床心理士は国家資格ではありませんので、「カウンセラー」と自称することは自由です。極端に言えば、明日から○○カウンセラーという看板を掲げることは可能です。

 このことからカウンセラーという名称は、かなり曖昧な印象をもたれているようです。さまざまな民間団体や学会が独自の資格を認定しているのは周知の事実です。民間団体の中には資格取得までの研修料金をかなり高額に設定しているところもあり、信頼できるかどうかちゃんと見分ける必要があります。インターネット上でもさまざまなカウンセリング機関が溢れています。

 それでも私があえてカウンセラーと自称しているのは、この曖昧さを逆に利用するためです。精神科のクリニックであれば、医師の診察は保険診療が適用されます。したがって料金も低額で済み、投薬も可能となります。いっぽうセンターのような臨床心理士による相談機関は、医療機関ではなく保険も適用されません。料金も、1時間の初回面接が1万500円(含消費税)かかります。保険診療に慣れた人には途方もなく高額に思えるかもしれませんが、弁護士相談の料金も1時間約1万円であり、精神科医の自費診療=1時間の精神療法の料金はもっと高額であることを考えると、私たちの料金設定は妥当だと思います。詳細について述べる紙数がありませんが、それだけの料金設定をしてセンターが存続するためには、精神科クリニックとはまったく異なる援助システムを構築し、臨床心理的援助の方法を身につける必要があります。そして、多くの人たちに利用してもらうために、幅広い問題をあつかい、相談の間口を広げることが要求されます。そのために「カウンセリングセンター」と名づけ、私はカウンセラーと自称しています。精神科のクリニックに比べてまだまだ認知度が低いセンターが存続するためには、このような戦略と努力が不可欠でした。

 少々説明が長くなりましたが、ヨウコさんが希望されるのはどのような活動なのでしょうか。単に困った人の役に立ちたいというのなら、ボランティアでもいいのではありませんか。各自治体にはさまざまなボランティア活動を紹介する窓口が用意されているはずです。

 また息子さんが通所されているNPO法人の活動のお手伝いをすることもできるでしょう。そんな可能性を探られるのも一つでしょう。

他人の役に立ちたいという欲望

 さて、ヨウコさんはなぜ人の役に立ちたいのでしょうか。実はヨウコさんだけではなく、これまでに何人もの方から「これまでの私の人生経験を生かして、困った人のお役に立ちたい」という申し出を受けたことがあります。そのような考えに至ることはそれほど不思議ではありません。予期せずして苦しい経験に出会い、それをなんとか「乗り越えた」と思う人は、なぜ自分にそのような試練が襲ったのかをしばしば考えるものです。

 苦しい経験であればあるほど、その意味を見つけなければ人は生きていけません。自分の経験がまったく無意味だったと考えることは、深い絶望に通じるでしょう。東日本大震災で被災された人たちも、今に至るまで、そしてこれからも、繰り返し繰り返しなぜ自分があのような目に遭わなければならなかったか、と問い続けずにはいられないでしょう。

 苦悩の淵からやっとの思いで少し這い上がったころに、同じような苦しみを味わっている他者の姿が見えてきます。その時、新たに自分の経験を同じ苦しみを味わっている他者の役に立てられないだろうか、そうすることで自分の経験に意味がもたらされるかもしれない、と思うのです。前提になっているのは、「乗り越えた自分」と「苦しみの最中にある他者」との分断です。

 体験者が自らの経験を生かして援助者になる例は、アルコール依存症の世界では珍しくありませんでした。アメリカでは、1980年代に回復者カウンセラーと呼ばれる人たちが数多く治療現場で活動しました。長期にわたって酒をやめ社会生活を送っている人が、自分の経験を生かしてアルコール依存症の治療チームの一員になったのです。日本でも80年代から90年代にかけて、アルコール依存症の回復者カウンセラーが援助者として雇用される例をいくつも見てきました。彼らは酒をやめ続けるために、ほぼ毎日自助グループのミーティングに参加します。そこではメンバー全員がアルコール依存症者であることにおいて平等ですが、いっぽうで援助者でもある場合、そこに一種の権力性が生まれてしまいます。簡単にいうと「俺はプロとして援助する立場にある」という、上から目線が生じがちであり、時に本人は意識しなくても、周囲がそうとらえることもあります。自助グループでは、このような現象を「二つの帽子をかぶる」という比喩を用いて厳しく戒めます。

 アルコール依存症のように、自助グループという相互の対等性を保証する場があっても、しばしば断酒が長い人が経験の浅い人に対して権力的で上から目線になりがちだということは、大きな示唆を与えてくれます。

わかってあげる、わかってもらうという不可能性

 さて、他人の役に立つということがなぜある種の危険性をはらんでいるかがおわかりになったでしょうか。同じ苦しみを味わったからこそ生まれる権力に、ヨウコさんは敏感になっていただきたいのです。女性同士の世界でも、子どものいない人には私の気持ちなんかわからないといった分断は日常的に再生産されています。

 ヨウコさんは、たぶん「こんな苦しみを味わったからこそ、人の苦しみをわかってあげられる」と考えていらっしゃるのでしょう。世間ではこのような考えが一般的だと思います。それは、裏返せば「同じような苦しみを味わったことがない人に、私の苦しみなんかわかるはずがない」という考えに通じます。

 では、他人の苦しみを「わかってあげられる」とは、どんなことなのでしょうか。同じ苦しみを味わったことがなければ、わかってあげられないのでしょうか。答えはノーです。津波にさらわれた経験のない人に、被災者の苦しみがわからないわけではありません。私たちに与えられた想像力こそが、体験したことのない苦しみに思いを馳せることを可能にします。

 もっとはっきり申し上げると、他者の苦しみを「わかる」ことなど私たちにはできないのです。自分の苦しみですら引き受けるのが難しいのに、他者のそれをわかることなどおこがましくてできないといったほうがいいでしょう。

 カウンセラーはクライエントの苦しみを「わかってあげる」のが仕事ではありません。わかるという言葉をめぐって発生する、わかってもらえる、あげられるという力関係はむしろ危険なものであると思います。

今こそ好機(チャンス)

 クライエントの前に座って、現在の苦しみや悲しみ、恨みや絶望についてクライエントが語る言葉を聞き、それをカウンセラー自身の想像力で再構成し類推していくこと。それがおそらく「わかる」ことなのだと私は考えています。クライエントの語った言葉を一言一句聞きもらさず、私はすべてを再構成して語り直せるように努めています。そうできることが、クライエントの「聞いてもらった」という深い満足感になると思うからです。それを経なければ、新しい方向性を提示することもできないでしょう。共感という言葉はどうしても感情重視に傾きがちです。むしろ、クライエントの語る言葉や内容をどのように把握するかという認知的側面こそ重要なのです。

 ヨウコさんにとって重要なのは、自らの経験をどの程度まで振り返り総括できているか、つまり個別的経験をどこまで相対化できているかということです。なぜなら個人的経験にとらわれてしまうことは、援助者=プロのカウンセラーとして仕事をするうえでむしろ障害になるからです。自分がこうやって苦しみを乗り越えたという一種の成功譚に固執していると、それを相手に押し付けないとも限りません。アルコール依存症の回復者カウンセラーの落ち入りがちな陥穽がそれでした。

 率直に申し上げましょう。ヨウコさんは、せっかく余裕のある生活がもどってきたのですから、少しゆったりしましょう。夫の定年退職後はいっしょに旅行にでもでかけましょう。不幸な人たちの援助をするより、少しは楽しんでみてはいかがでしょうか。私から言われるまでもなく、ヨウコさんなりにすでにいろいろ試みられたのかもしれませんね。しかしどうもうまくいかない、むしろ落ち込んでしまった。カウンセラーになるという目標を立てた途端に元気になった、ということかもしれません。

 とすれば、楽しいことには少しも食指が動かず、自分より不幸な人との分断に惹かれてしまう自分をみつめてみましょう。そして他人の苦しみを「わかってあげたい」という欲望から自由になってください。むしろ、余裕のできた今こそ、過ぎ去った嵐のような日々を振り返る好機なのです。そのために、思い切って今度は自分のためにカウンセリングを利用してみませんか?


※「あなたの悩みにおこたえしましょう」は、今回で終了します。ご愛読、ありがとうございました。

信田 さよ子(のぶた・さよこ)
臨床心理士、原宿カウンセリングセンター所長。1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了(児童学専攻)。病院勤務などを経て、1995年より現職。アルコール依存症、摂食障害、ひきこもり、DV、児童虐待に悩む人やその家族のカウンセリングを行っている。著書に「タフラブという快刀」「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」「共依存・からめとる愛」ほか多数。

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コメント(1)

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「二つの帽子をかぶる、上から目線」

プログラムを手渡す側が共感性(ナラティブ)を否定し

システマティックになると帰属意識(愛着)は形成されません

しかしこの国の社会構造、習慣、民族性では

「偉い立場でお願いするから効果がある」のも事実です

そこに求められるのは武士道(ノーブルオブリゲーション)のはずです

武士道(惻隠の情、真のエリート意識)は血縁では育ちません

この国では家、家系、家制度の中で育ち継承されます

侍は滅亡したのでしょうか? 武士の魂は何処に存在するのでしょうか?

侍の魂は各自の一番深い所に存在していると考えます

それを育てるのは家(グループ)だと考えます

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