精神疾患の最近のブログ記事

海外論文ピックアップ Lancet Oncology誌から
チェルノブイリの健康被害、最も深刻なのは精神面への影響
エビデンスありは小児の甲状腺癌のみ
大西 淳子=医学ジャーナリスト
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/hotnews/lancet/201105/519693.html魚拓)(魚拓2)(魚拓3

 チェルノブイリ原子力発電所の事故が住民の健康に及ぼした影響を長期にわたって評価してきた米Roswell Park Cancer InstituteのKirsten B Moysich氏らが、2011年4月26日付のLancet Oncology誌電子版にコメントを寄せた。同氏らは、自らの研究も含めてこの事故の健康被害の正確な評価が非常に難しいことと、その理由を説明した。さらに同誌のエディトリアルは、同日付で、チェルノブイリの事故が住民の健康に及ぼした最大の影響は精神面に表れたという報告を紹介している。

乳癌や小児の白血病増加の疫学調査は設計に問題

 Moysich氏らは、チェルノブイリ事故を以下のように概説している。

 1986年4月25日、チェルノブイリ原子力発電所の4号炉では非常用の電源システムの実験が行われようとしていた。この原子炉は、現在では使われていない旧式の黒鉛減速軽水冷却炉だった。実験のために不安定な状態に置かれていた原子炉は、実験開始をきっかけに急激に出力を増したが、原子炉冷却用の水は失われた状態にあり、過剰な発熱が生じて、4月26日未明に水蒸気爆発と炉心溶融に至った。

 福島第一原子力発電所と異なり、格納容器を持たなかったチェルノブイリ原子炉では、続く圧力容器の爆発によって大量の放射性物質が拡散した。大気中に放出された核燃料は8~180トン、核分裂生成物(放射性物質)は30億~90億キュリーと推定されており、それらは風に乗って北西方向に飛散した。事故後数日間、正確な線量測定が行われなかったため、放出された放射性物質の正確な量を知ることはできない。

 爆発により数人の作業員が死亡し、消火に当たった消防士100人が大量の放射性物質に曝露した。黒鉛は10日間燃え続け、放射性物質の放出は約20日間続いた。100~200人が急性放射線症候群と診断され、うち約30人が早期に死亡した。その後10年間にさらに14人が死亡している。

 事故の際に放出された核種は主に放射性のヨウ素131とセシウム134、セシウム137だった。ほかに、放射性のストロンチウム89とストロンチウム90、プルトニウム234も放出されている。ヨウ素131の半減期は8日と短いため食物連鎖の中に入り込んでも短期間のうちに減衰する。だが、セシウムの半減期は2年から30年と長く、非常に広範囲にわたる汚染が発生した。ストロンチウムは半減期が52日から28年で、セシウムと同様の長期的な汚染を引き起こした。

 事故によって放出された放射性物質の量は広島に投下された原爆の400倍だった。だが、実は、1950年代から60年代にかけて行われた核実験では、チェルノブイリ事故の100~1000倍の放射性物質が放出されたと著者らは言う。

 チェルノブイリから放出された放射性物質の影響が最も大きかったのは、ロシア、ウクライナ、ベラルーシだった。汚染が最も深刻だった近隣地域では住民27万人が軽度から中等度の曝露(被曝線量にすると5~500mSv)を受けた。

 チェルノブイリの事故がその後の癌罹患率を高めたかどうかを調べた論文は数多く存在する。著者らは、国連が最初に公表したチェルノブイリリポートの作成に参加し、02年には、それまでに報告された研究を対象に疫学的レビューを行ってLancet Oncology誌に報告している(概要はLancet誌のWebサイト参照)。著者らはこの時点で、小児の甲状腺癌を除いて事故後に癌の罹患率が上昇したことを示す強力なエビデンスはないと結論していた。

 著者らと同様に、チェルノブイリ事故による汚染と小児の甲状腺癌の関係を示した2件の集団ベースのケースコントロール研究はいずれも、対象となった個々の小児の被曝線量を詳細に調べ、十分に選び抜かれた精巧な統計学的アプローチを用いて分析していた。それ以前に提供されていたエビデンスと組み合わせると、チェルノブイリ事故の結果として小児の甲状腺癌罹患が増えたという結論に疑問を差し挟む余地はなく、得られた知見は、チェルノブイリ事故と同様の事態が発生した場合に安定ヨウ素剤を配布、使用を促すかどうかの判断に利用できる、と著者らは述べている。

 一方で著者らは、チェルノブイリ事故による健康被害を評価する際に直面する壁について論じている。著者らが05年に報告した、小児の白血病がベラルーシ、ウクライナ、ロシアで増加している可能性を示した研究結果(概要はInternational Journal of Epidemiology誌のWebサイトを参照)については、試験設計に問題があったことを認めた。分析対象となったコントロールの小児の多くが事故による汚染がなかった地域から選ばれていたため、分析によって示された事故後の白血病リスクの有意な上昇は納得のいくものではないという。さらに、旧ソ連の構成国で疫学調査を行うことの難しさが正確な評価を妨げた。当時、それらの国は長期的な疫学調査の経験をほとんど持っていなかった上に、言語の壁は厚く、文化的な差は大きかった。さらに調査の対象地域が非常に広範で、全てをカバーすることが困難だった。著者らは、それらの問題も含めて試験設計に欠陥があったと考えている。

 また、ベラルーシとウクライナでは乳癌の罹患率が上昇したという報告があるが、記述疫学研究の結果であること、この研究が居住地域の汚染度に基づいて患者の曝露放射線量を推定していたことから、乳癌との関係については今後再評価が必要としている。放射線曝露による肺癌リスク上昇を報告している研究もあるが、やはり試験設計上の欠陥がデータの信頼性や正当性を脅かしている上に、喫煙の影響を放射線曝露の影響から完全に切り離すことは不可能との見方を示した。

 福島原発の今後について、著者らは、放射性ヨウ素とセシウムへの曝露を最小限に抑えるための努力の重要性と、汚染地域の隔離の必要性を強調した。

 著者らは、「痛ましいことではあるが、日本で進行中の原子炉事故は、放射性物質への曝露が癌リスクに及ぼす影響を評価するための新たな機会を提供する。日本は放射線疫学研究の長い経験を持つため、適切な調査を行うことができるはずだ。チェルノブイリ後の疫学調査を難しくした大きな要因の1つがソ連の崩壊を中心とする政情不安だった。日本は、地震と津波、そして原発事故を経験しても、政治的にも経済的にも安定しており、原発事故が健康に及ぼす影響の総合的な調査が可能と期待される。得られるデータは、今後そうした事故が発生した場合に国民に正確なリスク予測を伝えるため、また、公衆衛生担当者が有効な介入を行うために役立つはずだ」と述べている。

 原題は「25 years after Chernobyl: lessons for Japan?」、全文が、Lancet誌のWebサイトで閲覧できる。

見逃されがちな住民への心理的影響
 Lancet Oncology誌のエディターは、同じ4月26日に電子版で公開されたエディトリアルで、以下のように述べている。

 原子炉事故後、長期にわたって懸念される最大の健康被害が癌の罹患だ。原爆の生存者や被曝事故の被害者を対象とする研究で、放射性物質への曝露と白血病その他の固形癌(甲状腺癌、消化器癌、乳癌、肺癌など)が関連付けられているが、周囲の立ち入り禁止区域が適切に設定されれば、そうしたリスクを負うのは原発作業員にほぼ限定されるだろう。

 原子炉を冷却するために使用された放射性物質を含む水が海に放出されたため、海産物の汚染が懸念されている。また、農作物や水道水の汚染も報告された。福島原発から放出された放射性物質は世界各国で検出されており、米国でも大気、雨水、牛乳からヨウ素131が検出されたが、米国当局は、検出レベルは低く、国民の健康に悪影響を及ぼすことはないと強調している。

 日本政府と東京電力は、特に事故後初期に正確な情報提供を行わなかったとして批判されている。政府が4月12日に、国際的な基準に基づく事故の評価をスリーマイル島の原子炉事故と同じレベル5からチェルノブイリと同一のレベル7に引き上げたことについても、遅すぎたとの非難を受けている。

 だが、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)は、福島の事故は、環境への影響という観点からはスリーマイル島とチェルノブイリの事故の中間に位置するもので、住民の長期的な健康被害が深刻になることはないとの予測を示している。

 チェルノブイリと比較して住民が不安になるのも無理はないが、チェルノブイリの事故の健康への影響については一致した見解は得られていない。UNSCEARは08年に、小児の甲状腺癌の6000例超はチェルノブイリの事故に関連付けられると結論したが、他の癌については事故との関連を示す明確なエビデンスはないと報告している。一方、民間団体のグリーンピースは、事故に起因する過剰な癌罹患者は9万3000例を超えるだろうとの予想を示している。

 日本では福島原発周辺の住民に対する甲状腺被曝のスクリーニングが行われているが、これまでのところ危険なレベルに達している人は見つかっていない。

 なお、原子力事故の心理的負荷は見逃されがちだが、実は国際原子力機関(IAEA)は91年に、チェルノブイリ事故の精神面への影響は生物学的なリスクに比べ非常に大きかったとの結論を公表している。国連のチェルノブイリフォーラムも、事故の最大の影響は住民の精神的健康面に認められ、放射性物質曝露が健康にもたらすリスクに関する情報が適切に提供されなかったことによって被害はさらに深刻になったと述べている。

 福島原発事故の長期的な転帰は明らかではないが、今後数年間、放射線量を監視し、適切な安全策を実施し、住民を支援するためには、正確な情報の広範な提供は必須だ、と著者らは述べている。

 エディトリアルの原題は「Japan's nuclear crisis」、全文が、Lancet誌のWebサイトで閲覧できる。

参考リンク:
チェルノブイリ20年の真実
事故による放射線影響をめぐって
http://www.aesj.or.jp/atomos/popular/kaisetsu200701.pdf

「偽物」と分かっていても、治療に効果発揮する偽薬
http://jp.wsj.com/Life-Style/node_369992

 「パラセボ(偽薬)効果」と聞くと、その偽薬が効くと信じるが故に得られる気分的な高まりを思い浮かべることが多い。だが、最近の研究では、つかの間の気分の高まり以上のものがパラセボから得られることが分かってきた。

 最近の研究で、自身の体や健康状態に関するある種の見方や思い込みが、病状の改善につながり、食欲や脳化学物質や視力の変化にまでつながる可能性があることが示され、心と体が深く結びついていることが浮き彫りになった。

 この場合、摂取するのがパラセボであり、「本当の」治療ではないと分かっていても関係がないようだ。ある研究では、有効成分を含まない砂糖の薬を飲むと告げられた被験者にも、強いパラセボ効果が見られた。

 パラセボは実際の臨床診療でも使われる場合がある。英国の医学会報で発表された2008年の調査では、700人近い内科医とリウマチ専門医にアンケートを行い、その約半分がパラセボを定期的に処方すると答えた。最もよく使われるパラセボは市販の痛み止めとビタミン剤だ。砂糖でできた薬や食塩注射を使うと答えた医師はわずかだった。米国医師会によると、扱いにくい患者をなだめるためだけにパラセボを処方することはできず、患者に通知して同意を得なければ使うことはできない。

 研究者はパラセボ効果をさらに探求し、効果を増減させる方法を解明したいとしている。体重やメタボリズムに関係する健康状態を改善するうえでは、より強力で長続きするパラセボ効果があれば有用かもしれない。

 エール大学院生のアリア・クラム氏とハーバード大学のエレン・ランガー心理学教授が行い、2007年にサイコロジカル・サイエンス誌に掲載された研究によると、ホテルの客室係は、仕事がよい運動になると聞かされると、4週間後には体重や血圧、体脂肪が大きく減少した。同じ仕事をしながらも、運動については聞かされなかった従業員では体重に変化はなかった。両グループとも食事や運動量は変わっていなかった。

 昨年、ヘルス・サイコロジー誌に発表された別の研究では、個人の食欲やグレリンと呼ばれる消化管ペプチドの生成に対して、人の物の見方がどのように影響するかが示された。グレリンは食後に得る満足感に関係しており、体が食べ物を必要している時には上昇し、カロリーが摂取されると減少して、もう空腹ではなく、食べ物を探す必要はないと体に伝える。

 しかし調査では、グレリンのレベルは、実際にどれだけのカロリーを摂取したかではなく、どれだけ摂取したと告げられるかに左右されることが示された。これから飲もうとするミルクセーキが620キロカロリーで「過剰」であると告げられた被験者は、脳が満足感を認識し、同じミルクセーキが120キロカロリーで「適度」なものであると言われた被験者よりも、グレリンのレベルが低下した。

 クラム氏によると、この結果は、ダイエット食品を食べるとなぜ満足感が得られないのかを、心理学的に説明するという。「ダイエット食品を食べる場合、体に対して十分には食べないと伝えることになる」

 うつ病や片頭痛、パーキンソン病などに関する研究では、砂糖でできた薬や偽手術、偽はり治療といった効力のないとされている処置でも、大きな効果をもたらすことが発見されている。サイエンス誌に2001年に発表された研究では、パーキンソン病の症状を改善するうえで、パラセボが本当の治療と同等の効果を発揮することが示された。パラセボは実際に、パーキンソン病の治療に有効とされている神経伝達物質のドーパミンを大量に誘発した。

 ハーバード大学のパラセボ研究プログラムのディレクターであるテッド・カプチュク氏らは、パラセボが効果を発揮するためには、必ずしも患者をだます必要はないことを示した。同氏らは、過敏性大腸症候群の患者80人に対して、パラセボを与えるか、何の治療も施さなかった。パラセボを与えられたグループは、薬が効力のない物質で作られ、「心身の自己回復プロセス」を通じて症状が改善するという研究結果があることを示された。患者は、パラセボの効果を信じる必要はないが、ともかく薬を飲むように言われた。3週間が経過した後、パラセボを摂取した患者は苦痛が軽減し、一部の症状が大きく改善、生活の質がいくぶん向上したと報告した。

 なぜパラセボは、真の治療ではないと知らされた後でも効果を発揮するのか。カプチュク氏は、期待感がその一因だと言う。また、前向きな環境に置かれ、革新的なアプローチと薬を飲むという日々の儀式が、変化に対して開かれた心を作り出すのではないかという。

 カプチュク氏は「現在のところ、パラセボは病気の生態を根本から変えるのではなく、患者が病気を経験し反応する方法を変えるのではないかと考えている」と話している。

記者: Shirley S. Wang
「トラウマを消す薬」を米軍が研究

兵士たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)問題を抱える米国防総省が、「恐怖の消去」に役立つとされる、D-サイクロセリン(DCS)を使った曝露療法の研究に支援を開始した。

http://wired.jp/2011/12/21/%e3%80%8c%e3%83%88%e3%83%a9%e3%82%a6%e3%83%9e%e3%82%92%e6%b6%88%e3%81%99%e8%96%ac%e3%80%8d%e3%82%92%e7%b1%b3%e8%bb%8d%e3%81%8c%e7%a0%94%e7%a9%b6/魚拓

PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ兵士は少なくとも250,000人にのぼるが、これまでのところ、国防総省が試してきた治療法はどれもうまくいっていない。抗鬱薬や行動療法といった従来型のアプローチは、大失敗に終わっている。

国防総省の助成金によりハーバード大学で大々的に行われたプロプラノロールに関する一連の研究(日本語版記事)をはじめとする、「恐怖を除去する」とされる薬をテストするこれまでの調査も、すべてが期待に反する結果に終わっている。

こうしたなか、米国防総省は12月13日(米国時間)、軍が実施するPTSD研究に関して、長期にわたって中核となる3つの研究機関に対する合計1,100万ドルの補助金を発表した。ニューヨーク長老派教会病院ワイル・コーネル・メディカル・センター、南カリフォルニア大学、およびエモリー大学において、D-サイクロセリン(DCS)の有効性に関する研究を専門家が行うことになる。

DCSは、恐怖記憶の消去を促進するとされている薬だ。たいてい、曝露療法(疑似体験療法)の直前に、このDCSを服用する。

曝露療法とは、心的外傷(トラウマ)による恐怖の連想を無効化するために、安全な環境でトラウマ的体験を再び体験するものだ。心は、過去の出来事を思い出すたびに、その記憶を「上書きする」。曝露療法によって、患者が心的外傷の記憶をより恐ろしくないものに書き直す方向に持っていくことで、悪夢やフラッシュバックなどの症状を著しく改善できることが複数の研究で示唆されている。

曝露療法の際に用いられるDCSは、恐怖反応の統制に関与している脳の経路に働きかけ、書き直しを促進すると考えられている。DCSにより、脳が学習するプロセスが強化されるようだ。DCSはまた、恐怖反応を司る脳の領域である小脳扁桃にあるレセプターと結合する。そのため、患者がトラウマ体験を再体験している「あいだに」恐怖反応をブロックすることで、DCSは恐怖を出どころから、文字どおり「消去」できると専門家は考えている。

DCS自体は1960年代から存在しており、最初は結核の治療に使われた[抗生物質の一種]。しかし現在は、抑鬱症、統合失調症、強迫性障害、そしてPTSDなどの症状を緩和して、錠剤の常用をせずにすませられるという可能性のほうに、研究者は関心を向けている。

エモリー大学の研究チームは、PTSD、高所恐怖症、および強迫性障害の患者に、DCSとバーチャル・リアリティーの利用をすでに試みている。バーバラ・ロスバウムらの同大学の研究チームは2006年以降、患者にDCS、ザナックス[抗不安薬]、また偽薬を用いて、曝露療法の比較実験を行っている。

一方で、DCSに関する人体研究には、望みが持てない結果が出ているものもある。2010年には、国際トラウマティック・ストレス学会(ISTSS)の大会で、DCSを使った期待はずれの試験が数件、発表されている。

{この翻訳は抄訳です}
TEXT BY Katie Drummond
TRANSLATION BY ガリレオ -緒方 亮

WIRED NEWS 原文(English)
http://www.wired.com/dangerroom/2011/12/fear-erasing-drugs/魚拓
昭和戦前期の浮浪者と精神障害
http://blogs.yahoo.co.jp/akihito_suzuki2000/61514816.html

出家乞食や武者修行などを除くと、真に生活の恒常的落伍者としての浮浪者及び乞食はその社会的生活力の欠損ないし喪失の主原因を社会的条件よりはむしろ心身いずれかにおける疾病ないし異常、すなわち医学的条件に見出し得るものの多きことが、本調査によっても明瞭である。ことに、精神病による痴呆者あるいは白痴者、重症痴愚患者のごときは家族的庇護または社会的保護を失えばただちに浮浪、乞食にその声明を保持するほかに途なきものであって、少なくともかくのごとく場合には社会的原因の副たるべきは極めて明瞭である。したがって、これらの精神病者、精神欠陥者に対する社会施設の貧弱なる我が国において浮浪、乞食の数がこの程度にとどまっていることは多くの家族がこれらの保護にいかに努力しているかを示すものとも解せられる。

身体・病気・医療の社会史の研究者による研究日誌
http://blogs.yahoo.co.jp/akihito_suzuki2000/

「きみの扱った例の予後はどうだい」

「葛藤主題がはっきりしている例はよかったな。葛藤主題がはっきりしていると、治療のタイミングを選ぶことができる。今裁判中とか、紛争中とか、そういう時には健康を維持するに留めて、もっと雌の時を待つより仕方ない場合もある。非常に社会的地位の高い人は、非常に低い人くらい治療が難しいな。ある程度より偉くなると、飲みつづけるままで周囲がカバーしちゃうんだ。男性性を回復した例はよかったな、象徴的次元であれ、現実の次元であれ、ね。それから、老人が意外にいい。統計をみても、四〇代より五〇代、それより六〇代と飲酒率が減ってる。酒に見放されるということがあるのだ。うまく見放して貰えばいい。私の父は酒豪だったが、六五歳くらいで酒に見放されたらしい」

「きみは、アルコール症だという自己規定を患者に叩きこまないのだね」

「いや、「きみには酒は合わない」と言ってある。それ以上はしない。私にはアルコール症だというアイデンティティを患者が強烈に持つということは、彼らのブラック・ユーモアに現れているマゾヒズムに奉仕しているような気がする。短期的にはいいが、長期的にはどうかな」

「そういうやり方はどこで見つけたのだい」

「正直にいうとタバコを止めようとして何度も失敗した自分の体験だ。タバコはなかなか止められなくて、ついに止めたのは、自分の病院に病気で入院した時で、看護師さんにとがめられるのが恥ずかしくて止めた。この機会でないとやめられないだろうという気もあった。せっかく入院したのだから、とせめてもの収穫にしたい気もあった。しかし、振り返って見ると、ぼつぼつタバコに見放されかけていたのかも知れない。タバコを吸うと多少息苦しくなっていた。今日は元気だ、タバコがうまいというのは、あれはほんとうだね」

「薬は何を使う?」

「安定剤としては、古い薬ではレボメプロマジンが好きだった。肝臓障害が気になるが、飲んで肝臓をこわすのと天秤にかける。少量でいい。この薬は、不安を静める以外に、不安とはちょっと違うと思うが、目の前にあるものに手を出さずに我慢するのを助けてくれるようだ。あのじりじりした感じを和らげるのだね。「おあずけ」を耐えやすくするみたいな。この薬を米国でもっぱら強迫症に使うのも、強迫行為を我慢しやすくするのだろう。逆に強迫症に効く薬をアルコール症にも使う。クロキサゾラムとかブロマゼバムだね。しかし、本人が止める気がなければだめなのは、どんな薬でも同じだね」

「精神療法は?」

「今述べたことが精神療法的だと思う。強力な精神療法には私は賛成しない。だいたい内面化することができないからアルコールに走るんだから。絵画療法のほうがすこしましかな。でも、どうでもいい細部にうんと時間をかける人が多いのでやりにくい。粘土を使うほうがいいようだ。いずれにしても補助手段だが、意外なことを教えてくれる場合もある。仕上げに長くかかるのはどうしてだろう。飛躍がないということか。箱庭では、現実にあるもの、たとえば宝塚遊園地といったものを作る。こういう創造性の乏しさも、シュルテが脱核化Entkernungと呼んだ事態だろう。外側は残っているが人格の芯が焼け落ちているということだ。統合失調症より治りがいいとか、軽いとか言えないのではないかな。早期発見、早期治療がありえないせいもあるかな。酒を飲んで味が判らなくて、しかもだんだんピッチが上がる青年、または欲求不満の際に飲酒がまず頭に浮かぶ青年は止(や)めるほうがよいだろうね」

「断酒会やアルコーリツク・アノニマス(AA)はどう思う?」

「ああいうやり方を否定しているわけじゃない。私のは精神科医単独でせん妄状態で担ぎこまれた患者を治療しなければならなかった時代に作った方式だ。断酒会向きの人とAA向きの人とがあるね。向き向きでいいんじゃないか。いずれの方式でも治癒率は二〇パーセントくらいというね。私の考えは、強いていえば、そうだなあ、アルコール症の治療者には宗教的信念を持った医師がやや多くて、それで治る患者もいるだろうけれど、その外にはみ出た部分を対象にするものかな。私の考えの底には、タバコ一つ止めるのに苦労した自分だからアルコール症の人を意志が弱いとは到底思えないということがあるね。私はアルコール症の人より自分のほうが、「意思が強い」なんて思ったことはないね」。

(「兵庫精神医療」八号一九八七年)

文庫版への付記-私はアルコール症の専門家では全然ないが、こういう関与をしていた。

「入院したら、きみはどうする?」

「点滴して電解質を正し、肝庇護に葡萄糖を入れ、時には非常識量のビタミン氏を初め、向神経性ビタミンを加え、よくルシドリールか何かを入れる。振戦せん妄は最後の良心の現れで、治療のチャンスだというシュルテの見解もあるけれど、私はせん妄を防ぐほうだ。アルコール症の人は、一見大丈夫にみえても、どこか神経系をやられていることが多い。内科的に親切に看護することは、アルコール症の場合にもよい効果がある。こういう状態は二週間くらいで終わる。後は一見普通の人だから、扱いが微妙だ。一見普通に見えるのに、絵画テストやロールシャッハ・テストをしてみると、慢性分裂病かと思う例が結構ある。こういう構造のゆるいテストで暴露され、構造の硬いテスト、たとえば知能検査やクレペリン作業テストではあまり欠陥がでない。画なんかでは統合失調症と似ているが、社交性は一見よいし、職業的行為はちゃんとやれるところが違う。その代わり、人格の芯は統合失調症より崩れているかも知れないね。たとえば、統合失調症の人にとって、言葉は重い。重すぎるくらいだ。しかし、アルコール症の人には言葉は紙のように薄っぺらだ。私は、アルコール症の人の行動を信じ、言葉は信じない。両方とも信じなければ治療関係が成り立たないから――。で、禁酒を誓っても、気のない言い方で、「ああ、それは結構」くらいの返事をする。「酒を断って三カ月になります」と言えば、「三カ月は三カ月の値打ち、一年なら一年の値打ちだね」と言う。これは、実績はそのかっきりの価値を認めるという意味だ。それ以上にも以下にも評価しない。これが、患者にとって結局いちばん楽なのだ。

 入院中、重要なのは、文化祭とか何かの催し物で役につけないことだ。あくまで平(ひら)で参加してもらう。いろいろ気の利いたことができるので、つい使ってしまうが、こうした患者は、外での劣等感を内で威張り人を使うことで代償しようとする。この味を覚えると、治りがぐっと悪くなる。部屋の責任者にすると病棟のボス化したりする。その代わり、奇装をしたり、髭を立てたりすることは認める。髭は立てたら剃らないように勧める。これは男性の象徴である。これを簡単に母親や妻の「何よ、むさくるしい」という台詞で剃ってしまうことが多い。こういう去勢的な台詞を家族に禁止しておくのが重要である。実際、ヒゲを立てた患者の予後は一般によい。

 退院の時には、「酒を止めたということを友人にいわないこと」と言う。実は気が付かれるのが意外に遅いことを味わってもらう。他人は、それほど自分に関心を持っているわけでないという現実を体験してもらうことだ。耐えられなくて言ってしまう人は、どうも予後が悪い。もう一つ、酒を止めたことを知ったら友人が「おまえはえらい。あんな好きな酒をよく止めたな。意志が強い。だから、どうだ、この一杯を飲んで、また止められるだろう」という、そういう悪友が現れるものだと予言しておく。友人にこう言われると、自分の意志が強くて大丈夫だという気になるものだ。だが、これは悪魔のささやきだ。「私はそれを酒をやめたという友人にやったことがあります」と告白する人が少なくないね。それがヤマ場で「俺はそっちは卒業したからジュースにする」生言うかどうかに今後がかかっていると告げる。

 後は外来でやるわけだが、時に遅い子が生まれたりするのは良い徴候だ。妻が「このごろ性が強くて困ります」といえば、「一時です」と一言う。アルコール症のインポテンスは、生理的なものだけではないと思う。酩酊の時には非常に自分中心になっている――あかごのようにというべきか――ので、自分を性的に開くことができず、相互性のない、力ずくの性になりやすく、ここでアルコールの作用によるインポテンスが露呈するのだと思う。そして、例の劣等感、恥が顔を出して、性的接近を避けるようになるのだろう。恥辱感による悪循環から救われたら何とでもなると思う。かなりの年寄りでもできることである。生理的衰微は、相互の接近で充分カバーできると思う」

「再発したらどうする?」

「まず、患者の顔を心配そうに見て、首を振って、何もいわずにできるだけ大きな注射器を使って注射する。点滴よりこちらのほうがいいんだが。こちらの顔をみたらすこし大げさな身ぶりで、ニヤッと笑う。武士の情だね。これで済む場合もある。だめなら、七転び八起きだね」

「その範囲できみが書いている経験をもう一度述べてくれないか」

「繰り返しは残念だけど、新しい体験に乏しいから、そうするよりないな。私が最初になるほどと感心したのは、ヴァルター・シュルテという南ドイツはチュービンゲン大学の教授でもう亡くなった人の指摘。独特の恥辱感あるいは劣等感――ひがみというか――がアルコール症の人にあるということだね。彼は、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の中の「アル中の星」を例に挙げている。アル中は王子さまに「ああ恥ずかしい、恥ずかしい」「何がそんなに恥ずかしいのですか」「アル中であることが恥ずかしいのです、ああ恥ずかしい」と言ってアル中はまたぐいと一杯ひっかけましたとさ、という話だ。恥の文化とか罪の文化とかいうけれど、これで見ると西欧でもアルコール症者は恥の文化だな。私は、この恥意識に注目して対応の仕方を考えた。もう一つはかねていわれているのが、アルコール症の人はブラック・ユーモアを使うし、わかるということだね。ユーモアがわかるのなら、これを放っておく手はあるまいと思ったのさ」

「両者は無関係じゃないね。恥にまみれた自分をユーモアで捉えるということは、ひとつの健康化への試みだろう?」

「ユーモアの極致は、例の『宝島』のスティーヴンソンの『ロバを連れての旅』だということを昔読んではっとしたことがある。南フランス旅行の話だが、昔のこととて荷物をロバに積んで行く。ロバがぬかるみに足をとられて倒れる。民衆は見ているけれど、手を出さない。こちらはあれこれ意志を通じさせようとやってみるけど、だめだ。この旅行記がユーモアの極致だというのだね。つまり、惨めさの中にある自分を距離を置いて眺めるということだ。これは成熟した態度だけど、アルコール症の人に話すユーモアはだじゃれ程度でいい。あまり深刻なのはどうかな。治療者からは、相手ほどブラックでないユーモアを返す」

「どういうふうに?」

「いや、むつかしいことじゃない。酒というかわりに「米の汁」でいいんだ。それだけでアルコール症の人は治療者の「武士の情」を感じるはずだ。入院治療でも最初が肝心で、家族に「簡単だが実行はなかなか難しいことを一つ守ってくれますか」と言い、これに同意するのを入院の条件とする。当方が引き受けるまでに言わないと、家族は真剣に聞いてくれない。それは人情だから、必ず、同意してもらってから治療を承知する。それまでなら家族は「治るためなら何でもしますから」と言うからそのうちが花だね。もっとも、その時も「それで必ず治るとまでは言えないけれど、少なくとも実行してくれるのとくれないのとでは大違いだと思う」と言って、安請け合いはしない。お願いするのは「恥をかかさないこと」で、「むろん酒飲みへのいろいろな説教はみんな恥をかかせるようになっている。それで治る人もいるだろうけれど、そういう人ならここまで来ていない」と言い、「酒を止めてえらいね」という言葉でも、「どうせ俺はそれぐらいしか褒められることのない奴さ」とひがんでしまうという話をする。また、私も患者が聞きあきたような説教はしないという。実際、それは同じ穴に何度も釘を打つようなもので、だんだん力を強くしないと同じ効果が得られない。強くすると副作用、反作用が大きくなる。これは、一般にスパルタ的といわれる方法の欠点だね。ハト派のやり方は手ぬるいかもしれないけれど、何度でもやりなおせる。七転び八起きってわけだ。実際、このせりふは口癖のように使ってもいい。しかし、たいていは患者の側に初めて聞くという驚きがないと治療的な対話にはならないものだ。「またか、この先生も同じことを言う」と落胆するだけだ。この患者がまだ聞いていないことはどういうことだろうと考えをめぐらすことが、治療者の進歩になる」

「新しい内容なんてなかなか思いつかないだろう」

「いや、たとえば、患者が私は酒が好きで、といったら、いや、きみは米の汁が合わないと答える。どうして、と聞かれたら、何でもやりだしたらやめられないものはその人に合っていない、と言い、誰れでも苦手なものが一つや二つはあるものだと言う。そういう問答でも結構耳を傾けてくれるよ」

「どうして地域によって違うのだろう?」

「それはわからないね。緯度の高いところほど強い酒を飲むという原則も日本にあてはまらないね。蒸留酒の技術がポルトガルかオランダだか、ミャンマーからマレイシアだか、とにかく南西の方角からやって来て、まず八重山群島、それから琉球本島、そして薩摩にはいったという事情もあるだろうがね」

「よくいわれるのは、酒を飲む地方と飲まない地方の差がかなりはげしいこと、それから、同じアルコール消費量でありながら、東北と九州および高知とではアルコール症発生率が非常に違うこと。これは社会精神医学が取り上げて調べているみたいだが、要するに文化の相違だろうね」

「世界的にも文化によって酒に対する態度は幅があるだろう」

「そう。イスラム圏は酒を飲まない。インドネシアだと薄いビールはいいらしいが、アラビアでは酒類は禁止で、重い罰を受ける。ヒンドゥー圏も禁酒地域だが、罰はどうかな。アメリカ、西欧、中国ではお酒を飲むのはいいが、酔っぱらうのは社会的に排斥される。もっとも、コーカシアンはアルコール分解の過程でアセトアルデヒドの加水分解酵素を皆持っているが、日本人は持っていない者も多いらしいね。あるいは能率のわるい酵素(アイソザイム)しか、ね。日本人が酔っぱらいやすいのには生理学的な根拠があるわけだ」

「しかし、外国のアルコール症にくらべると日本のアルコール症はかわいいものだというね」

「ほんとうのところは知らないのだけれど、アメリカでは、ドランカードとコミー」は職が得られないというね。コミーとはコミュニストのことだが。だから、アルコール症の人は失業してますますアルコールに溺れてゆくという悪循環があるだろうね。サウディアラビアなんかはアルコール販売が死罪じゃなかったかな。あすこのアルコール症ほどひどいのは見たことがないと実見した精神科医が言っていたね。地下室で酔いつぶれているアルコール症者の群――」

「ハワイで、カナカ族の、高見山みたいな大きさの青年が、そう、ダイアモンド・ヘッドの少しワイキキ寄りの誰もいない浜で、真昼だった、仁王立ちになって海のほうをぐっと見つめていた。よく見ると、足元のアイスボックスから罐ビールを取っては一息に飲み干してポーンと海に空き罐を投げる。いつまでも、いつまでもそうしていた。雄々しくてとても孤独な感じだった。日本のアルコール症の崩れた甘えた感じから遠かったな」

「眼に浮かぶようだな」

 

「一休みしたいね」

「ああ、少し疲れた」

「話が世界に広がりすぎたかな」

「うーん、私の言いたかったのは、アルコール症は地域によって違うということなんだ。それから、階級によっても違う」

「アルコール症の治療者も地域によって違いそうだね」

「多分そうだろうね。碇さんの宴会療法は他地方では実践しにくいだろうね。それは患者側だけじゃない。精神科医の側にも九州には骨太の実践的精神があるように思うね」

「そうだね。けれどもそれだけじゃなくて、あれは難しいアルコール症の治療に挑戦したという、地域を超えた意義があると思うな。つまり家族から見放され、友人もなく、趣味もなく、野球や相撲にひいきのチームや力士があるわけでもなく、酒の種類や銘柄はおかまいなしで、ひたすら麻痺と意識混濁を目指す、そういう患者は治療が困難だと君が書いたことがあるね。それを碇さんは読んでおられると聞いた。これにヒントを得てひとつ挑戦してみようとしたんじゃないかな。そういう例はまわりにいっぱいいたろうしね。あの試みは困難な例の治療に初めて道をつけたといえると思う」

「私が挙げた中で「家族が見放していず、友人と飲むことが多く」ということはどこか人間的魅力があるということだね――、「何かの趣味があり」――世界に向かって部分的にせよ開かれているということだ――「野球や力士にひいきがあり」――ということは同一視する対象があるということだね――、「酒は何で、銘柄が何という好みがあり、ほろ酔いを楽しむことができる」、こういう条件の全部が揃っていたらアルコール症にならないだろうが、多いほど治療がしやすいのは当然で、こういう条件の多くを充たしている患者しか結局は治療になっていないね、残念だけど」

「きみはアルコール症を診たことがあるのかい」

「そう、東京で精神病院に勤めている時が主な体験かな。こっちでも診ているが、少ないね。名古屋では診なかった。あすこはアルコール症が少ないんだ」

「そんなところがあるのかね」

「うん、東京では大工さんのアルコール症は治しにくかった。建築の祝いには酒がつきものだからね。それを名古屋で話すと、いや、ここでは酒を出さない。五合瓶を持って帰ってもらうようにすることが多いといわれた。びっくりしたね。自動車の普及のせいかなと思ってみた。たしかにあの町は自動車がないと暮らせないようだ。だが、それだけではない。東海地方は全国でいちばん単位人口当りの精神病床数の少ないところだ。それにはアルコール症の少なさも手伝っているだろう。むろん、アルコール症がないわけじゃない。

だが、それはよそから来た人が多いというのだ。この言い方には、土地の人の排他的な感情が混じっているかもしれないが。繁華街が少ないのは事実だよ。他の都市から見ると、桁違いに小さい女子大小路とかいうのがあるくらいだ。そうそう、東京の浮浪者のアルコール症は治りにくい。繁華街の裏口に置いてある空き瓶の酒を集めると結構の量になるというんだ。それは名古屋では通用しないといわれたね。空き瓶に酒が残っているなんて考えられないのだって」

 

「ずいぶん違うんだな」

「そう。アルコール症は地域によって大違いだ。それによって治療法も変わってくると思う。九州の精神科医、北海道の精神科医、関東の精神科医、それぞれがアルコール症の治療法を書いているが、そこの飲酒文化の違いを反映しているという感じがとてもする」

「たとえば?」

「九州大学の精神科に碇(いかり)さんというドクターがいる。彼は宴会療法というのを提唱している。患者と一緒に宴会をするのだ」

「えっ」

「彼は北九州の炭鉱地帯で仕事をしていた。あすこは昭和三〇年代から、エネルギー政策の転換といって、要するに石炭から石油に換えるということなんだが、それで沢山の炭鉱を廃山にしてしまった。その一〇年前は、傾斜再生産といって、石炭が最重点で、都会から炭鉱へ行く人を美談だと新聞が書きたてたり、天皇が坑道の奥深くはいったりした。政策転換とはむごいものだね。炭鉱の社会は非常に緊密な共同体だった。それが根こぎされたわけだ。アルコール症が激増したのも無理なかろう」

「第二次大戦中にアメリカ軍の基地に雇われたりして生活のスタイルを失い、貨幣経済に強制的に編みこまれたエスキモーやカナダ・インディアンが人口の半分ほどもアルコール症になってしまったのに似ているね」

「生きがいが確立していた人が、社会変動のために生きがいの基盤を掘り崩されて、もう一度生きがいを求めようもないという事態だとこうなるのだろうね。一民族がアルコール症になってゆくとは悲劇だね、まったく」

「酒は人類最古の安定剤だというが、安定剤がわりに使うとよくないようだ。いくら飲んでも、心の安らぎが得られるわけでない。いや、得られる人はわれわれの目に留まらないわけか。得られない人がいるということ、得られない人は、とにかく意識を失うまで飲んでしまうということだね」

「そうだ、楽しみながら飲むといいわけか」

「酒を味わうのはいいんだろう。うっとりとしたところで止めるから。だから、碇さんは、酒を楽しく飲めばずいぶん状況はよくなるだろうと考えた。彼の挙げている例では、四〇年くらい飲酒歴のある女性が出てくるが、このおばさん、酒がうまいとは一度も思わなかったそうだ。宴会療法は、医師や看護師、看護士も交えて、酒と肴を用意し、カラオケも準備して、どんちゃんさわぎをする」

「医師も座持ちがよくないとだめだろうね」

「必ずしも座持ちのよい人とは限らないらしいよ。精神科医が対人関係の達人とは限らないのと同じだね。碇さんはたしか酒を飲まない」

「結局どうなるんだ」

「酒との関わり方が変わる。結果として酒量が減り、いつでも酔っぱらっている必要が減る。小諸で一九八四年にあった精神病理懇話会の席上、ビデオを見せつつ発表した時は、聴衆は皆うなったね。壮絶というか、何というか」

「なるほど、きみのいわんとすることはこうだろう。それは北九州の、一部かもしれないけれど、その現実に即したやり方だと―」

「そのとおり。だから聴衆もはじめは抵抗を感じていたけれど、途中からは引きこまれて声もなかった」

kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)
サインバルタのセロトニン、ノルアドレナリン取り込み阻害比

http://ameblo.jp/kyupin/entry-11043963220.html

このブログをずっと読んでいる人ならわかるが、最近読み始めた読者の方は、セロトニン、ノルアドレナリン、ドパミンと言われても、ピンと来ないと思われる。下の表を目安にしてほしい。

セロトニンの低下が最も関与する臨床所見
緊張、焦燥。

ノルアドレナリンの低下が最も関与する臨床所見
意欲の低下
興味の喪失

ドパミンの低下が最も関与する臨床所見
楽しみの喪失

セロトニン・ノルアドレナリンの低下が関与する臨床所見
不安

セロトニン・ドパミンの低下が関与する臨床所見
食欲・性欲の低下

ノルアドレナリン・ドパミンの低下が関与する臨床所見
活動性の低下

この表を見ると、ジェイゾロフト、サインバルタ、ブプロピオンはうつ状態のどのような所見を改善するのかがイメージできる。各薬物のテーマの記事も参考にしてほしい。

ひきこもり対策推進事業│厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/bunya/seikatsuhogo/hikikomori.html

ひきこもりとは、平成19年度から平成21年度に取り組まれた厚生労働科学研究「思春期のひきこもりをもたらす精神科疾患の実態把握と精神医学的治療・援助システムの構築に関する研究」において、次のように定義されています。

「ひきこもり」とは

○ひきこもりとは、様々な要因の結果として、社会的参加(義務教育を含む就学、非常勤職を含む就労、家庭外での交遊など)を回避し、原則的には6ヶ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態。(他者と関わらない形での外出をしている場合も含む)

・ひきこもりには、確定診断がなされる前の精神障害が含まれている可能性がある。

<思春期・青年期ひきこもりケースの背景にある精神障害の実態把握>
・実施方法:H19~H21年度に、全国5カ所の精神保健福祉センターにひきこもりの相談に訪れた16歳~35歳の方(本人の来談)184人に精神科的診断を実施(分担研究者:近藤直司の調査による)
・結果:診断の確定は約8割に当たる149人、情報不足等のための診断保留が35人。
 第一群(統合失調症、気分障害等の薬物療法が中心となるもの)49人(32.9%)
 第二群(広汎性発達障害や精神遅滞等の生活・就労支援が中心となるもの)48人(32.2%)
 第三群(パーソナリティ障害や適応障害等の心理療法的なアプローチが中心となるもの)51人(34.2%)
 分類不能1人(0.7%)
・背景にある精神障害の診断や治療だけでなく、ひきこもりがもたらす「自立過程の挫折」に対する支援も必要である。
出典:H19~H21年度「思春期のひきこもりをもたらす精神科疾患の実態把握と精神医学的治療・援助システムの構築に関する研究」(厚生労働省研究班 主任研究者 齋藤万比古)

現在ひきこもり状態にある子どものいる世帯は、全国で約26万世帯と推計しています。

わが国の「ひきこもり」の実態調査
<把握の方法>
 全国11地域の住民から無作為に選択した4,134名を対象に、訓練を受けた調査員の戸別訪問による直接面接を実施(平成14年~平成17年度に、世界精神保健日本調査と合同で実施)
<調査の結果>
・対象者のうち、20~49歳の者(1,660名)の中で、過去にひきこもりを経験したことのある者:1.14%
・面接を受けた対象者全員(4,134名)の中で、現在ひきこもり状態にある子どものいる世帯:0.56%(全国推計では約26万世帯)
出典:H18年度「こころの健康についてに疫学調査に関する研究」(厚生労働科学研究 主任研究者 川上憲人 研究協力者:小山明日香)
広島大、鬱病の客観的な「指標」を発見
http://sankei.jp.msn.com/science/news/110831/scn11083106010000-n1.htm
2011.8.31 06:00

 鬱(うつ)病(びょう)の症状を客観的に診断するための指標となりうる物質を、広島大大学院(広島市)などの共同研究グループが世界で初めて発見したと30日発表した。成果は米科学誌、プロスワン電子版に掲載された。鬱病はこれまで、医師が患者の症状をもとに主観的に診断する方法が主流だが、今回の発見では、血液を調べることで客観的な診断方法の開発に役立つと期待される。

 発見した研究グループの山(やま)脇(わき)成(しげ)人(と)教授によると、鬱病の要因は世界で研究されているが、糖尿病診断での血糖値や高血圧診断での血圧値のような客観的な指標は発見されておらず、気持ちの落ち込みや意欲の低下などの症状から、医師が判断するしかなかったという。

 山脇教授らは脳内に多く存在するタンパク質である「脳由来神経栄養因子(BDNF)」をつくる遺伝子に着目。未治療の鬱病患者20人と、鬱病でない18人の血液を採取して解析したところ、この遺伝子の中で起きる「メチル化」と呼ばれる化学反応をみると、鬱病患者にだけ特有のパターンが見つかった。過度のストレスが異常なメチル化を引き起こした可能性があるとみられる。

 BDNFは神経細胞の成長に不可欠な栄養素の物質で、これまでも動物実験などで鬱病と深い関係があることを示す研究データはあったが、BDNFの血液中の濃度に関する研究では関連が証明されていなかった。今回の手法が実用化できれば、費用は1万5千円程度で、2日間で結果が出るという。

 山脇教授らは「さらにデータを集め、抗鬱薬の投与や病状の変化と、メチル化の程度の変化の関連性などを調べて、鬱病の客観的な診断方法を確立したい」としている。



うつ患者に特有タンパク質パターン=診断客観指標に応用期待-広島大
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011083100080

  うつ病患者に特有の血中タンパク質の構造パターンを発見したと、広島大学大学院医歯薬学総合研究科の森信繁准教授らのグループが31日発表し、米科学誌「プロス・ワン」電子版に掲載した。
 従来うつ病の診断は、意欲低下などの症状を基にした主観的なものだったが、森信准教授は、今回の発見が、構造パターンを客観指標とした診断法や治療に役立つ可能性があるとしている。
 森信准教授らは、神経細胞の栄養成分となる脳由来神経栄養因子(BDNF)というタンパク質の一種に着目。BDNFの遺伝子にメチル基と呼ばれる分子が結合する「メチル化」のパターンについて、未治療のうつ病患者20人と、健康な人18人の血液を採取し解析、比較した。その結果、遺伝子の特定の部位で、うつ病患者と健康な人で全く違うメチル化のパターンがあることが分かったという。(2011/08/31-06:55)
自傷行為の嗜癖化プロセス:松本俊彦先生より
http://ameblo.jp/tochigi-akk-society/entry-10972388092.html

1. 自傷行為の嗜癖化プロセス

アディクションの本質は、エスカレートするなかで当初の目的を見失い、いつしか行為の主体性を失ってしまう点にあります。自傷行為にもそういった特徴が見られます。当初は自ら主体的に自傷行為をすることによって自分の感情をコントロールしていたつもりが、気がつくと、自傷行為にコントロールされ、振り回されている自分がいます。そのような観点から、私はかねてより「自傷行為の嗜癖化プロセス」なる臨床上の作業仮説を提唱してきました(松本と山口, 2005)。

以下に、この仮説について説明しましょう。

1) 自分をコントロールするための自傷行為

私たちの調査(山口ら, 2004: Matsumoto et al, 2008)によれば、自傷行為が開始される年齢はおおむね12歳頃です。ファヴァッツァらの調査(Favazza et al, 1989)では自傷行為の平均的開始年齢は12歳、ホートンら(Hawton et al, 2006)によれば11~13歳とされていることを考えると、国を問わず、小学生から中学生へと移行する思春期の始まる時期に自傷行為が始まるといえるでしょう。

では、最初の自傷行為はどのような経緯からなされるのでしょうか? 
これまで私は、自傷行為は決して失敗した自殺企図ではないと述べてきました。しかし、自身が行ってきた自傷者との対話を通じて、人生最初の自傷に限っていえば、実は自殺の意図があることが少なくない、という印象を抱いています。おそらくその致死性の予測は様々なだと思いますが、最初の自傷行為には自殺の意図があったと語る自傷者は意外に多いという気がします。

典型的な例を挙げてみましょう。たとえば、家庭や学校で繰り返し自分を否定される体験をしている子どもがいたとしましょう。それは、虐待やいじめといった明確な形かもしれませんし、試験で90点をとってもいつも「なぜ100点じゃないのか」と親から責められるような不明瞭なかたちでもよいでしょう。いずれにしても、「いまのあなたではダメだ」というメッセージであることには変わりはありません。

おそらくその子は、自らのことを「自分は要らない子」「余計な子」と認識していることでしょう。最初のうち、このつらい状況について周囲の大人の誰かに相談するかもしれません。しかし、大人たちは、「がんばれ」「おまえも悪い」「やられたらやりかえせ」とお決まりの反応をしたり、そもそも大人自身が自分の問題に夢中であるために、その子の訴えに耳を傾けられなかったりするかもしれません。やがて子どもは、「誰も信じられない」「もう誰にも助けは求めない」と思いに駆られ、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」という感覚がわき起こります。この感覚は、いわば消極的で漠然とした自殺念慮といってよいものです。この頃には、高いところに上るたびに、「ここから落ちたら(あるいは、飛び降りたら)、どうなるのだろうか?」などといった空想を繰り返するようになる子もいます。そして、あるとき忍耐の限界に達して、子どもは自殺の意図から刃物で自分を切るわけです。もちろん、その傷は、客観的には「馬鹿げたかすり傷」にしか見えない軽症のものですが。

いずれにしても、その自殺企図は、誰にも知られることのないまま行われ、やはり誰にも知られることのないまま失敗に終わったことになります。しかし代わりに、子どもはそれまで自分の胸を圧迫していた「心の痛み」が霧散しているのを――すなわち、自傷行為の持つ「鎮痛」効果を――発見します。「死にたいほどのつらさ」も、うまくコントロールできるわけです。おそらく子どもはこう思うのではないでしょうか? 「これさえあれば、誰の助けがなくても生きていける」。そして、生きるために――あるいは、死なないために――自傷をくりかえすようになります。たいていは、周到に人目を避けて、誰にも見つからないようにして自傷行為におよびます。これは、先述した「情動焦点型」の対処であり、いわば「自分をコントロールするための自傷行為」のはじまりです。

2) 自傷行為の治療効果減弱とコントロール喪失

しかし、自傷行為の「鎮痛」効果には、麻薬と同様、「耐性」を生じやすいという性質があります。当初は週に1回自傷すれば不快感情に対処できていたものが、次第にその効果が薄れ、3日に1回、毎日、日に数回という具合に、徐々に頻度を増やさなければならなくなるのです。しかも、「鎮痛」効果を維持するためには、より多くの場所に、様々な方法で自分を傷つける必要があります。そのため、手首や腕だけで足りなくなり、他の身体部位を切ったり、さらには、切るだけではなく、頭を壁に打ちつけたり、火のついたタバコを皮膚に押しつけたりする者もいるでしょう。なかには、より深く切らなければならなくなり、まれではありますが、「意図せず」致死性の高い身体損傷におよんでしまう場合もありえます。

もう一つ困ったことがあります。こうした対処を繰り返すうちにストレス耐性が低下し、以前ならば気にもとめなかった出来事にも不快感情が生じるようになってしまいのです。最初は、「生きるか死ぬか」といった苦痛に対して自傷行為という対処を用いていたはずが、いつしか「友人の態度がそっけなかった......嫌われているのかも」といったささいな出来事に対しても、自傷しないではいられなくなるわけです。この現象は、あたかも、手術後の激しい疼痛に対して鎮痛剤を用いた人が、いつしかその鎮痛剤を常用するようになり、朝、目が覚めたときに「なんとなく頭が重い」だけでも鎮痛剤が欲しくなるのに似ています。

このようにして、自傷行為の治療効果が減弱する一方でストレス耐性が低下する事態を呈すると、自傷行為にはもはや自分をコントロールするパワーがなくなってしまいます。すなわち、いくら切っても埋め合わせがつかない状態――「切ってもつらいが、切らなければなおつらい」状態に陥るわけです。これは、アルコール依存症患者が呈する連続飲酒発作と同じ、コントロール喪失の状態といえます。ファヴァッツァのいう「反復性自傷行為」は、まさにこのような状態を指しているといえます。

この段階に到達した自傷者がとる行動は次の二つのいずれかであることが多いように思います。一つは、不快感情を軽減もしくは「リセット」する方法として、過量服薬――この時期にはまだ精神科に受診していない人が大半なので、通常は、市販されている鎮痛薬・感冒薬などを過量摂取します――のような他の様式に移行するというものです。もう一つは、さらに自傷行為に固執して、周囲にこの秘密の儀式が露見するという事態です。

3) 周囲をコントロールするための自傷行為

自傷行為に対するコントロールを失い、むしろ自傷行為にコントロールされる状況になると、自傷者には、もはや周到に人目を避けて自傷する余裕を失います。まもなくゴミ箱に無造作に投げ込まれた血のついたティッシュ、あるいは、洋服で隠せない場所につけた傷などが家族や教師の目に触れることとなり、彼らの秘密の儀式は露見してしまいます。当然ながら周囲は騒然とし、これを機に何らかの専門的援助につながります。彼らが精神科医療機関やカウンセリング室に訪れるのは、通常はこの時期です。

皮肉なことに、自傷行為は発見されることで、再びそのパワーを取り戻します。そのパワーとは、精神的苦痛に対する直接的な「鎮痛」効果ではありません。「余計な子」「要らない子」というアイデンティティを持ち、「いなくなってしまいたい」「消えてしまいたい」と感じている彼らが、自分の存在価値や重要他者との絆を確認することを通じて間接的に得られる「鎮痛」効果なのです。というのも、彼らが自傷をしたりしなかったりすることで、家族や友人、恋人、さらには援助者(精神科医やカウンセラー)を一喜一憂させ、自分から離れていこうとする人との絆を一時的な回復させることができるからです。周囲の人間は、彼らに注目し、まるで腫れ物に触るように接することを強いられ、いつもならば口をついて出てしまう非難や苦言も飲み込むことを余儀なくされます。

要するに、彼らは自傷行為を通じて家族内ヒエラルキーにおける下克上を実現できるパワーを手に入れるのです。そして、そのパワーに「酔う」ことで、彼らは自らの内にある「いなくなってしまいたい」「消えてしまいたい」という気持ちから意識をそらします。この段階は、まさに「周囲をコントロールするための自傷行為」といえます。なお、従来、境界性パーソナリティ障害に特徴的とされる「演技的・操作的な」自傷行為は、この段階で見られる自傷行為を指していると思われますが、注意すべきなのは、自傷行為は最初から演技的・操作的な目的からされるのではなく、あくまでも経過のなかで二次的に出現してくれるものだということです。

この「周囲をコンロトールするための自傷行為」の時期はあまり長くは続きません。自傷行為を発見されることで得られたように見えた周囲との「絆」は、たいていの場合、一時的なものにすぎないからです。家族、あるいは友人や恋人は、自傷することにもしないことにも、驚くほど早く慣れてしまいます。自傷行為にふりまわされることに疲れはてた家族、さらには援助者までもが、次第に自傷行為に対して冷淡な態度をとるようになっていきます。「死ぬ気もないくせに」「好きで切っているんだから」「自分で救急車を呼べば」などの辛辣な言葉が浴びせられることもあります。

これはきわめて危険な状況です。この段階にいたると、自傷行為には自分をコントロールすることも、周囲をコントロールすることもできなくなっています。自傷者は完全に無力化され、「要らない子」「余計な子」という否定的な自己イメージがわき起こり、これまで自傷行為に「酔う」ことでそこから意識をそらしていた「心の痛み」――すなわち、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」――が再び彼らを苛み、最初の自傷行為のときに存在していた自殺念慮が明確に意識されるようになります。もしもすでに精神科に通院している場合には、自殺の意図から、処方された向精神薬を過量服薬することでしょうし、過量服薬する薬がなければ、別の自己破壊的な手段をとるかもしれません。考えてみれば、彼らは自殺の意図から行った最初の自傷行為から、様々なプロセスを迂回して再び最初の場所に戻ってきてしまうことになります。

2. 自傷行為から自殺企図へ

1) 生きるための自傷行為が「死」をたぐり寄せる

ある17歳の女性患者は、両親からのネグレクトや学校でのいじめといった苛酷な環境を生き延びるために、11歳から自傷行為を始めましたが、いろいろな経過から15歳で自傷行為をやめようと決意して、自分なりに努力をして少なくとも2年間はやめ続けていました。彼女は、自分が自傷行為をやめようと思ったきっかけについて、次のように私に語ったことがあります。

「自傷行為をしている人は、他の人から自分を否定されてきた方が多いと思います。私もそうでした。『生きるために自傷しているのだから、それを止める権利は誰にもない』。家族や医者から『やめなさい』といわれるたびに、私はそう思ってきました。ただ、自傷行為をしていると、必ず先には死が見えて来てしまうんです。だんだん痛みに慣れていって、大量の血にも動じなくなってしまうんです。最初はそんなこと考えなかったのに、いつのまにか死への憧れみたいなものに少しずつ囚われている自分に気づいたんです。悩んで苦しんで、それでも『頑張って生きよう』『絶対に死なない』と強く思って始めたはずの自傷行為が、死に繋がってしまうのはあまりにも悲しい......そう思ってやめようと決心したのです」

私は、嗜癖化した自傷行為がエスカレートした果てに行き着く先は自殺であると考えています。私たちの研究では、精神科通院中の女性自傷患者のうち、18.9%が1年以内に医療機関で治療が必要なほど重篤な過量服薬を行っており(松本ら, 2006)、22.4%が3年以内にきわめて致死性の高い手段・方法で自殺企図におよんでいることが明らかにされています(松本ら, 2008)。また、オーウェンズら(Owens et al, 2002)らのメタ分析によれば、十代のときに自傷行為を行った若者が、10年後に自殺既遂で死亡している確率は、400~700倍に高まるといわれています。このことは、自傷行為は、その行為だけを見れば、様々な点で自殺企図とは異なりますが、しかし、長期的には自殺の危険因子であることを示しているといえるでしょう。

確かに、習慣的に自傷行為を繰り返している人たちのなかには、「生きるためにしている自傷している」と語る者も少なくありません。しかし、考えてみれば、「生きるために」自分を傷つけなければならない事態とは、それ自体、相当に危機的な状況なのではないでしょうか? そして、その危機的な状況を生き延びるために、一見すると、たわいない行動を繰り返して一時しのぎを続ける。あたかも破産寸前の経営状況を怪しい金融業者からの借金でしのいで破産を回避し続け、気づいたときには当初の何倍もの莫大な借金に膨れ上がってしまうように、「生きるため」の自傷行為を繰り返すことで、かえって死をたぐり寄せている可能性があるとはいえないでしょうか?

2) 死への「迂回路」としてのアディクション

私は、「生きるため」の行為の反復が結果的に死をたぐり寄せている、という現象こそが、実はアディクションの本質ではないか、と考えています。

アルコール依存症を例にとってみましょう。メニンガーはかつてアルコール依存症のことを「慢性自殺」と呼びました。その言葉は、いますぐ自殺してしまうことを回避するために(=生きるために)、ゆっくりと自分を傷つけて延命を図る行為を意味していました。しかし、自殺予防の専門家のあいだでは、アルコール依存症はうつ病と並んで自殺と密接に関連する精神障害であることが知られています。

このあたりのことを、アルコール依存症専門医である辻本士郎(2009)は、親しみのある言葉で巧みに語っています。「飲んでいる人は、心が死に向かっています。生きたいのと死にたいのと、両方あるんですよ。/生きることと、死ぬこととの、真ん中のようなところにいて、最初はなんとか生きていくために飲んでいたのが、飲むためにさまざまな努力をしたり、抵抗したりしているうちに、ただ飲みたいだけになってくる。だんだんと、生きるために飲んでいるのか、死ぬために飲んでいるのか、わからへんようなってくる。/もう死んでもええわ、どうでもええわ、と思いながら、飲んでいる部分がある。俺から酒をとったら何が残る、というのはこの段階です。/酒は疫病神だとわかっているけれども、もうこの疫病神と一緒でいいやという気持ち、それが『慢性自殺』です」。

中高年の男性たちが、日々の生活から生じる「心の痛み」を誰にも相談せずに、アルコールで蓋をしてどうやらこうやらその日を生き延びる。しかし、そんな一時しのぎをしたところで、「心」に痛みをもたらす根本的な原因は何も変わっていない。それどころか、問題はますます巨大かつ複雑になり、気づくとアルコールに溺れている自分がいて、どうにも引き返せない。このように、生き延びるためのアルコールが皮肉にも死をたぐり寄せる可能性があります。あるいは、最近十年あまりの中高年男性の自殺の背景にも、うつ病だけでなく、こうしたアルコールの問題が潜んでいるのかもしれません。

いずれにしても、アルコール依存症であれ、自傷行為であれ、その瞬間を生き延びるためのアディクションは、最終的には「死」への迂回路にすぎない場合が少なくないように思います。

3) 「感情語」の退化

自傷行為による「身体の痛み」には、一時的に「心の痛み」を抑えるという不思議な鎮痛効果があります。そして、これまで述べてきた通り、ある種の人たちはきわめて速やかにその「身体の痛み」に慣れていき、より強烈で新鮮な「身体の痛み」を求めて自傷行為が嗜癖化します。その嗜癖化プロセスの果てに自殺念慮が高まったり、自殺企図におよんでしまうのはなぜでしょうか?

私は、自傷行為によって「心の痛み」を言葉にしないで「身体の痛み」で抑えつけることは、自分の感情を無視し、「何も感じないようにすること」「何も起こらなかったことにすること」だと考えています。実際、自傷を繰り返す患者の治療をしていると、そのことを痛感させられます。たとえば、毎週の面接の最初に、私が「この一週間、調子はどうだった?」と質問するとしましょう。すると、患者は、「別に何も......」「変わりなかったです」「普通でした」などと答えるわけです。でも、そんなはずはないだろうと思うのです。現に、彼らの腕には多数の新しい傷跡が追加されているのです。いくら「アディクション」になっているからといっても、何もないのに切るはずはありません。そこで、時間をかけて1週間の様子を思い出してもらうと、やはりいろいろとつらい感情に襲われるような体験をしているのです。しかし、そんなとき自傷すると、つらい感情も、その感情の原因となった出来事の記憶も忘れてしまいます。自傷行為におよんだ後では、自分が何に傷ついて自傷したのかを思い出せなくなっているという人がけっこういるのです。

自傷者は、単に自分の皮膚だけを切っているわけではないのです。皮膚を切る瞬間に、つらい出来事の記憶もつらい感情に襲われたことも、自分の生活や人生から「切り離されて(=cut away)」されてしまうわけです。あるいは、こういいかえてもよいでしょう。自傷行為とは、あたかも「臭いものに蓋をする」ように、「身体の痛み」を使って「心の痛み」に蓋をして、「何も起こらなかった」「何も感じなかった」ことにしてしまうことなのです。

このようにして、次から次へと「心の痛み」に蓋をしていく行為をくりかえしていると、どうなるでしょうか? たとえば、誰かから手ひどい侮辱を受けたとき、「悔しい」「悲しい」「ぶっ殺してやりたい」などといったつらい感情を自覚するよりも早く、自傷行為を用いて、すばやく心のなかにある「汚物入れ用バケツ」に蓋をしてしまうわけです。そのすばやさは、それがどんな感情であったのかを確認する暇さえないほどです。そして、その結果、自傷者の心のなかではある変化が生じます。すなわち、「自分はいま怒っている」「自分はいま傷ついた」などといった感情語が退化し、体験する感情に名前を与えられず、自分がいまどんな感情を体験しているのかを把握できなくなるのです。もはやその人は、自分が何に傷ついて自傷したのか、思い出せなくなっていることでしょう。

4) 自殺念慮の出現

感情語が退化してくると、心はあたかも「仮死状態」となったかのように無反応を呈します。悔しい出来事、腹立たしい出来事、あるいはショックな出来事に遭遇しても、何も感じないし涙も出てこなくなります。実際、「もう何年も泣いたことがない」という自傷者は意外に多いのです。

もちろん、この仮死状態のおかげで、何が起きても傷つかないですむというメリットはあります。しかし、その代償は高くつくというべきでしょう。というのも、つらい出来事があっても、何の感情も沸かなくなり、ただ唐突に自分を切りたい衝動や焦燥感が異様に高まるだけの状態に陥ると、あっという間に自傷行為に対するコントロールが聞かなくなってしまうからです。それにまた、例の「汚物入れ用バケツ」に投げ込まれた、名前を与えられていない感情は次から次へと蓄積し、あふれ出さんばかりになっています。そうなると、いくら上から蓋を押さえも、それに対抗してあふれ出そうとする勢いを抑止することはできず、一部があふれ出てきてしまうわけです。

自傷行為を繰り返す人は、しばしば突発的に、あるいは、ほんのささいなきっかけから、「消えてしまいたい」「いなくなってしまいたい」という、漠然とした、消極的な自殺念慮を感じることがあります。実は、それは、いくら蓋をしても抑えきれずに「名無しの感情」があふれ出ていることを示すサインなのです。さらに、あふれ方が強くなれば、「死にたい」という、より明確な自殺念慮として自覚されるでしょう。要するに、生きるために感情を抑えつけ、感情語を退化させていくことが、最終的にその人を「死」へと近づけてしまうのです。

要するに、自傷行為は自殺企図とは異なるが、しかし同時に、それは、長期的には自殺につながる自殺関連行動でもある、ということなのです。ウォルシュとローゼンは次のように述べています。「自傷行為を繰り返す者の多くは死ぬために自分を傷つけているわけではないが、傷つけていないときには漠然とした『死の考え』にとらわれていることが少なくない。そして、あるとき、いつも自傷に用いているのとは別の方法で、自殺企図におよぶ」。さらに、自傷行為が持つ治療的な効果が消失してきた場合には、特に自殺の危険が高まっている可能性があるとも指摘しています。

実際に対応したことのある援助者ならば知っているはずですが、確かに、自傷行為におよんだ者が、傷の手当てを求めて学校の保健室や救急外来を訪れるときには、たいてい、「切っちゃった」などとケロリとした態度で話し、どこか深刻味のない、落ち着いた様子でいるものです。この深刻味のなさが援助者をして油断させますが、この段階で丁寧に対応することこそが大切なのです。

逆にいえば、もしも自傷者が「まだ切りたい!」「お願い、いますぐ切らせて!」などと切迫した様子を見せている場合には、自傷行為の治療効果がかなり弱まっている可能性があります。自殺の危険に関する慎重な評価を行い、緊急対応の是非について検討する必要があるでしょう。

愛は苦痛を緩和する:研究結果
http://wired.jp/2011/07/01/%e6%84%9b%e3%81%af%e8%8b%a6%e7%97%9b%e3%82%92%e7%b7%a9%e5%92%8c%e3%81%99%e3%82%8b%ef%bc%9a%e7%a0%94%e7%a9%b6%e7%b5%90%e6%9e%9c/魚拓

恋人の写真を見ると、苦痛があってもそれほど激しく感じない。このことは詩的な真実だが、科学的な事実でもある。

6月27日付けで『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)のオンライン版に発表された研究論文において、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の心理学者ナオミ・アイゼンバーガーの研究チームは、女性17名の被験者を対象に、fMRI(機能的磁気共鳴画像)装置を使って脳をスキャンしながら、短時間の痛みを伴う刺激を与えた。女性たちはその間、長く付き合っている交際相手、見知らぬ他人、物体の、いずれかの写真を眺めていた。

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左から、「パートナー」、「見知らぬ他人」「物体」。Image: PNAS

アイゼンバーガー氏が予測したとおり、恋人の写真を見ていた女性が感じた痛みの程度は、他の被験者に比べて低かった。この現象は、先行研究でもすでに報告されている。今回の研究が先行研究と異なるのは、その現象が起こっているときの被験者の脳を、fMRIで直接観察した点だ。

その結果、痛みが和らいだのは、前頭前皮質腹内側部(ventromedial prefrontal cortex)の活動が増大したことに関連しているとみられることが分かった。前頭前皮質腹内側部は、安全や安心などの感覚にかかわる脳の領域だ。

愛する人の存在は、単に脳の報酬系を刺激するのではなく、安全や安心の感覚を生じさせることによって痛みを緩和するのだと、アイゼンバーガー氏は事前に仮説を立てていたが、今回の結果はその仮説を裏付けるものとなった。報酬系への刺激による痛みの緩和という現象もわかっているが、それは付き合い始めで有頂天になっているカップルにみられる現象だ。

アイゼンバーガー氏によると、このような痛みの緩和効果は、クモやヘビの写真を見ると痛みがより強く感じられる現象を、ちょうど正反対にしたものかもしれないという。

「既存の文献では、準備性の恐怖刺激というものが論じられている。ヘビやクモなど、われわれが生まれつき恐がるように準備されている存在のことだ。これらのものは、進化の過程で常にわれわれの生存を脅かしてきた。そのため、適応の結果として、それらに対する恐怖が備わっている。一方で、愛する人、愛着の対象者というのは、進化の過程で常にわれわれの生存を助けてきた存在として、準備性の安全シグナルのような働きをするのかもしれない」とアイゼンバーガー氏は述べている。

今回の研究では男性が被験者になっていないが、アイゼンバーガー氏は男性にも同様の現象が見られるはずだと述べる。「女性のほうが感受性が強いと思われるかもしれないが、このようなプロセスは、男性にとっても同じくらい重要なものだ」

TEXT BY Brandon Keim
TRANSLATION BY ガリレオ-高橋朋子

WIRED NEWS 原文(English)
http://www.wired.com/wiredscience/2011/06/love-reduces-pain/

脳は「他者への罰」に快感を覚える:研究結果
http://wired.jp/wv/2011/05/09/%e8%84%b3%e3%81%af%e3%80%8c%e4%bb%96%e8%80%85%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%bd%b0%e3%80%8d%e3%81%ab%e5%bf%ab%e6%84%9f%e3%82%92%e8%a6%9a%e3%81%88%e3%82%8b%ef%bc%9a%e7%a0%94%e7%a9%b6%e7%b5%90%e6%9e%9c/

多量飲酒、周囲の人の健康にも影響
https://aspara.asahi.com/blog/medicalreport/entry/xghsIsukgG

坪野吉孝 《山形さくら町病院精神科・早稲田大学大学院客員教授》

多量飲酒者は本人の健康を害する場合があるが、周囲の人達の健康にも悪影響を与える可能性があるという論文が、アディクション誌に1月公表された。

ニュージーランド全土から無作為に選んだ12~80歳の男女3,068人に電話調査を行ない、自分の周囲に多量飲酒者がいるかをたずねたほか、本人の健康度と生活の満足度を質問した。多量飲酒者が1人以上いると答えたのは対象者の29%で、うち26%が同じ世帯で暮らしていた(配偶者や父母兄弟など)。

周囲の多量飲酒者の人数と同居時間から、多量飲酒者との同居の程度を「レベル0」から「レベル3」までの4グループに分けた。最小群(レベル0)は多量飲酒者との同居なし、最大群(レベル3)は1人以上の多量飲酒者と半日以上同居している状態だった。

その結果、最小群と比べると、最大群では「健康度」が16%低く、痛み、不快感、不安、うつなどをより多く感じていた。また「本人の生活の満足度」は4%低くなっていた。

最小群と比較した最大群の「健康度」の低下の大きさは、障害者を介護している人の低下と同程度であり、「生活の満足度」の低下は、難病患者を介護している人の低下と同程度だったという。

多量飲酒者との同居の程度別に見た「生活の満足度」と「健康度」
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著者らによると、多量飲酒の他者への影響のうち、交通事故や胎児への影響のようにはっきりしたものについては調べられている。だが、「健康度」や「生活の満足度」のように、より主観的な影響を数値で表す研究が行なわれるようになったのは最近という。

たばこ対策の場合には、本人への健康被害と、受動喫煙による他者への健康被害を併せて考えることが一般的だ。同様に、多量飲酒が本人への健康被害に留まらず、他者の健康にも悪影響を与えることが今後の研究ではっきりすれば、アルコール対策でも両者を併せて考えることが必要になるだろうと、著者らは結論している。

多量飲酒者が周囲の健康に及ぼす影響が小さくない可能性を示した点で、重要な研究だろう。

参考リンク
 今回の記事で紹介された論文
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1360-0443.2011.03361.x/abstract

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