心の家路
ハイヤーパワーのいる会場・いない会場

グループの第二会場を開き、そしてそれを閉めるまでの話。

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2004/05/11 

僕が週一回のミーティング会場を開き、グループとして活動を始める数年前から、12番目のステップ活動のためにこの街を訪れてくれた仲間たちがいました。

ひとつは、県内の他のグループの仲間です(当時は4つのグループがありました)。

「これだけの大きな街に、ミーティング会場が無いのはおかしいじゃないか」

という一言で、この市内でミーティングが始まったと聞きました。 コーヒーなどのバスケットは、近くのグループのチェアマン (後に僕のスポンサーになってくれた人です) が、毎回持参してくれていました。 月に一回、日曜日の午後のミーティングが始まりました。 最初は、市の公民館を使っていたようですが、そこは絵の展覧会やら文化祭やらで使えなくなる日が多く、会場の確保に苦労したようです。

そこで、協力を買って出てくれたのが、現在の僕の主治医でもあるK医師です。 この先生のクリニックの3階でミーティングが始まったのは、僕がAAにつながる何年か前だったようです。

さて、もうひとつは、県外から病院メッセージに来てくれていた仲間たちでした。 この病院メッセージ活動と、長野の地区内のメンバーの活動とは、様々な面で軋轢を生んでいくのですが、それは別の話にゆずりましょう。 ともかく、月に一回、遠い県外から草深き山の中まで(比喩的表現だよ)、病院メッセージにやってくる人々がいたのです。 彼らがやって来る週と、前述の日曜日のミーティングの週が一致していたのには、何らかの意図があったのか、単なる偶然なのか、今となっては確かめるすべもありません。 しかし、このめぐり合わせによって、午前中に病院メッセージを済ました人々が、このミーティングにも顔を出してくれるようになりました。

そんなわけで、県内の他のグループから、また県外から、AAメンバーたちが、このクリニックのミーティングを訪れました。 ですが、時には10人以上の人々が集まるこのミーティング場の最大の問題点は「地元の人がなかなかつながらない」ことでした。 クリニックの先生は、依存症の治療については定評がある先生でしたから、その紹介でやってくる人々も結構沢山いたようです。でも、月に一回のミーティングに、長いこと続けて出てくる人は、なかなか現れなかったようです。

僕のスポンサーもかわいそうな人で、 「皆で始めた」 はずの会場やら病院メッセージを、自分ひとりだけで(というか奥さんとお二人で) 「なんで俺が」 とぼやきながらも、なんとか維持していました。このミーティング会場も、そのひとつだったわけです。僕が、生まれて初めてAAのミーティングに出たのも、この会場でした。

その時のことで、覚えていることがいくつかあります。 テーマが『まだ時間のあるうちに』だったこと。 県外の女性のメンバーが 「半年ぐらい経ったときに、お酒のことを考えていない自分に気づいた」 という話をしていたことです。 当時の僕の頭の中は 「酒を飲む・飲まない」 「飲みたい・止めたい」 「諦念・執着」 といった 「アルコールのことでいっぱい」 でしたから、もし 「酒のことを考えていない自分」 があり得るならば、それを 「信じてみてもいいかなぁ」 と漠然とした期待を持ったりしました。 「神」という言葉が書かれている黄色いハンドブックを読むことや、最初に「アル中の○○です」と名のるところなど、噂に聞いていたとおりで少し滑稽に思えたりもしました。

そして、終わりがけに(後の)スポンサーが、「よかったらいらっしゃいよ」 と彼のグループの会場地図を渡してくれました。 そして、免許取立てで、峠を越えたこともなければ、高速道路に乗ったこともない自分が、地図とにらめっこでその会場を目指したのは、その3日後のことでした。

およそ一年後に、精神病院経由でAAに戻ってきて、グループをスタートアップさせた話は、別に書きました。

それから一年半後、僕らのホームグループは、(人数の点では)それなりの成長を遂げていました。 それとは別に、冒頭から書いている月一回のミーティング場も、平行して続けられていました。 僕のスポンサーも、この会場のことを 「地元のことは地元の人がやるのが一番」 と、チェアマンの役割を僕らのグループに引き渡してしまいました。 月一回の会場は、名目上は相変わらず 「県内AAメンバーの有志」 による会場でしたが、実質的には、僕らのグループがふたつの会場を維持している格好となっていました。

ミーティングが始まる前に、先生と一緒に昼食を食べるのが慣例になっていました(コンビニ弁当でしたがね)。 僕らはあまり深く考えもせずに、この昼食会(?)とミーティングを続けていたのですが、ある日先生がこう言われました。

「この会場も、その使命は果たしたんじゃないですかね」

そう言われてみれば、その通りでした。 「ミーティングの無い地方都市に、ミーティング会場を」 という理由で始めた会場ですから、そこにグループが誕生し、そして無事に存続していけるなら、当初の目的は果たしたと言えるでしょう。 そういう意味では、僕らのグループが最低限の安定へとたどり着いた、と評価を受けたような気がして、嬉しかった覚えがあります。

「自分もワーカホリックなので、すこし休みたい」 とも言われました。 たしかに、このミーティングから支払われるのは、当日の献金の半分(3分の1だったかな?)と、昼食会(?)の弁当現物だけなのですから、医師にとっては無償のボランティアに等しいわけです。

「自助グループとも、ある程度の距離を置きたい」 と言う話にも頷けました。 この先生が、地元の断酒会の創立にも尽力したという話は有名でした。 その先生のクリニックでミーティングを開いているというのが、僕らにとって何らかの 「お墨付き」 を得ているような雰囲気を作り出していました。 特定の自助グループとの距離が近すぎるのは、お互いにとってマイナスになる場合もあるでしょう。 それに、本来 「医療」 と 「自助グループ」 というのは、別のジャンルに属するもので、あまりに密接に関係するのも考え物です。

ともかく、僕らのグループのミーティング場ではなく、形式だけでも地区のミーティング場だったので、地区委員会に報告して、その承諾を先生に伝えると、2ヵ月後にはミーティングは終了と言うスケジュールが決まりました。

最後のミーティングは、いつもより一週間早くなってしまったため、意外なほど人数は少なかった事を覚えています。県外の仲間が来る週とは違うので彼らの姿はなく、また県内の他のグループの仲間もこの幕引きに特段の興味もないようで、地元のメンバーが主のミーティングになりました。
ただ、そのしばらく前に長野県に居を移した仲間が、「一度も行ったことの無い会場だから」 と、出かけてきてくれました。 経験の深いその仲間は、AAの中でも 「こうした特別なミッションを持った会場が、その使命を果たして閉じていく」 ことは、そうしょっちゅうあることではないのだ、と語ってくれました。
オープンミーティングということで、他のアディクションの人々も顔を見せ、一緒に 「僕たちは、ここから巣立っていったんだよねぇ」 という感慨を共有したミーティングでした。

さて、グループのほうでは、替わりの会場を探す話が進んでいました。 県内には、複数の会場を抱えているグループがふたつ。 同じ会場で週に2回ミーティングを開いているグループがひとつありました。 僕らのグループも、ふたつ以上の会場を持ちたい、という見栄っ張りな要素が無かったと言えば嘘になります。 もちろん、そうした感情は 「より多くの会場があれば、つながる人(助かる人)も増える」 という理屈の影にすっぽりと隠れてしまうのですが。

もちろん、それだけじゃなくて、切迫した問題があったのも事実です。 理由はなんだか判らないけれど、ミーティングに参加する人数が増えてきたことです。 ところが、僕は 「3人で90分」 のミーティングで始めた人ですから、しゃべらせると止まりません。 なかなか10分で 「まとまった話」 をするなんて芸当は出来ないのです。 でも、それは他の人も同じです。 みんなが話したいだけ話すと、90分という時間の枠に収まらなくなるのです。 おかげで、司会役はいつもハラハラドキドキ。 時間の配分をめぐって、メンバー間で非難の応報もありました。

ともかく、もう一つ会場を作れば、そうした問題も解決するだろう、という期待が高まっていました。

会場として、これ以上公共施設を借りることは、事実上無理でしたので、グループの会場をスタートアップした時に、話を伺いに行った教会の牧師さんに打診すると、快く引き受けてくれました。
夜のミーティングには出られない」 といって去っていった人々もいたので、「昼間ミーティングをやる」 というのが目標になりました。 でも、やっぱり週日の昼間は仕事を持っている仲間も多いので、週末の昼間にするしかありません。 教会は日曜日は特別な日ですから、土曜日の昼間ということになります。
時間は土曜の午前中に決まりました。回数は、最初は月に一回という話もありましたが、「ちょっと無理してでも、月に2回やろう」と決めました。

若い仲間が、夜のミーティング場のチェアマンを引き受けてくれるようになっており、新しい会場のチェアマンも含めて、グループのチェアマン、会計などの役割が、輪番制で回り始めました。

「もはや、このグループは僕のグループじゃない、みんなのグループになったんだ」

僕は、こう言い放ちました。グループの誕生から、2年の時間が流れていました。

そして、それからさらに2年後。 僕は、自分が生まれた病院で行われていた 「院内ミーティング」 を、なんとか病院の近くの公民館に移植し、そこをグループとしてスタートさせる計画に夢中になっていました。 先行く仲間の提案に従って、その計画を公にするのは、僕のホームグループのビジネスミーティングにしました。 「このグループを離れ、新しいグループへ移る」 という発表は、熱烈な歓迎を持って迎えられるという僕の予想を外し、沈黙で迎えられました。それでも反対する人はいませんでしたが。

それからは、「彼は新しいグループへ移るんだから」 という理由で、グループの役割の輪番からは外されました。 しかし、実は新グループの会場確保は難航していました。何せ、田舎の町です。教会もありません。 平日の晩に頼りになるのは、町の施設だけです。 僕は、町役場近辺にある、図書館・公民館・保健センターの、どこか一室を借りられるよう、交渉を続けていました。 幸いなことに、ここでも断酒会の方が先行して 「例会」 を開いていたので、AAの主旨も簡単に理解してもらえて、「部屋を貸す」 ことは問題はないと判断してもらえました。 問題なのは、施設自体が小さいので、毎週貸し出せるような部屋は、他の利用で埋まっているということでした。

町では大きな福祉施設の建設を進めており、そこへいくつかの業務が移れば、部屋は空くのは確実でした。 しかし、いつ・何の業務を移すのかは、誰も知りませんでした。 それがわからないと、どの部屋が・いつ空くのかも判らないのです。 「なぜ、判らないんですか?」 という僕の問いに、「町長や議会が決めることですから」 という答えをもらうのが精一杯でした。僕が幾ら力んでみたところで、どうなる問題でもない、ともかく時間が過ぎるのを待つしか手段がありませんでした。

そんなわけで、僕は 「ホームグループではお客さん」、でも 「新グループもまだ存在しない」 という宙ぶらりんな立場に置かれていました。そして、その間にグループに起こった変化は 「崩壊」 という言葉がぴったりの現象でした。

若い仲間たちは、仕事に就き、そしてミーティングから離れていきました。決して彼らがミーティングをないがしろにしようと気持ちがあったわけじゃないことは、僕もよく判っています。不景気の中でも、なるべくミーティングに出やすい職を苦労して選んだことは理解していました。でも、仕事とミーティングの両立は誰にとっても難しいものです。
スリップする仲間もいました。休職から職場に戻る人もいました。不規則ながらも、顔を頻繁に出しつづけていた仲間も、ふっと来なくなりました。僕は、ふたたび夜のミーティングのチェアマンとなり、新グループという夢は捨てるほかなかったのです。

グループに残ったのは、僕と、当時の昼間の会場のチェアマンの二人となりました。 まだ二人揃えばミーティングは成立しますが、どちらかが多忙や健康の問題を理由に休むと、一人だけのミーティングをすることになります。 たまに顔を出す仲間が来ないかと期待する15分、諦め混じりの15分・・・。 コーヒー用にお湯を沸かし、それを全て捨てて帰る侘しさ。 ビッグブックをひとりで読んで帰るミーティング。 時間を持て余すままに、それを嘆くメールを他のグループの仲間に送ると、「きっと大きな力がもらえるよ」 と励ましのメールが返ってきました。

昼間のチェアマンは、新しい分野に夢中になっていました。 それに時間を取られることに、僕は何も文句は言いませんでしたが、Eメールでやりとりする連絡の中には、感情の病気としか表現できない言葉が混じるようになっていきました。 彼のスケジュールも、彼の気持ちも 「いっぱいいっぱい」 の状態なのは十分わかっていました。でも、「僕はAAを離れませんから」 という彼自身の言葉が、実は一番彼を苦しめていたことに、僕は気付いていなかったのです。 そして 「無理しなくてもいいんだよ」 という僕の言葉が、いっそうその負担を増していることも。

そんな状況の中、昼間の会場を貸してくれている牧師さんが、他の教会に移るという話が伝わってきました。 新しい牧師さんが来るまでの1年間、その教会は閉められたままになり、再開された後もAAが使わせて貰えるかどうかは、新しく来くるであろう牧師さんと話をしてくれと・・・。

「どうせだから、この際、昼の教会でやっているミーティングは閉めて負担を減らそうよ」

僕は提案したのですが、彼にとっては「自分がチェアマンをやっている会場を閉める」という苦渋の選択を強いていることに、気付いていませんでした。

「ともかく、メールやFAXではなく、グループのビジネスミーティングで、どうするか決めよう。たとえそれが二人っきりのミーティングであっても」。 そのことだけは二人で了解が取れました。 でも、多忙な彼に、その時間は割けなかったようで、その週の夜のミーティングに彼の姿はありませんでした。
ちょうど新しい人がやってきていて、僕は、その人にAAの説明をし、司会をし、そして自分で第3章の文章も読みました。 ご存知のように、その文章には「私たち」という言葉が、繰り返し出てくるのですが、「私たち」 と言いながらも、自分しかメンバーがいないという説得力の無さを感じていました。 仲間がいたからこそ、僕にもエネルギーがあったんだな、そして今はそれが無い。 だからといって、彼らに無理やり出席を促すわけにもいかないのです。

結局ビジネスミーティングは開かれなかったので、議決は次回まで保留ということにしたつもりでした。 でも、そのことを彼に伝えることもしませんでした。 ちょうど年末年始が挟まって、翌年最初のミーティングが、昼間のミーティングという珍しい事態になりました。 「なぜ」僕がそのミーティングに行かなかったのか、ちゃんとした理由はひとつもありません。 寝坊をしたのは事実です。 でも、そのまま飛び出していけば、少々の遅刻で済む時間でした。 ぼうっとした頭で、ぼんやりしていると、メールが届きました。

(たとえひとりになっても、僕はこの会場を守ります)

はっきりと文面は覚えていませんが、そんな決意を感じさせる文章でした。
何と返信したものか迷っていると、次のメールがやってきました。

(そういえば年末に閉めることにしたんでしたね。 僕の勘違いでした。 すみません)

(いや、決まったわけじゃないだけど)心の中の反論が文字となり、電波を介在して、彼のもとに届くことはありませんでした。その後彼と何回会ったのか、僕の当時の記憶はかすんでいてよく判りません。

ちょうど僕の妻が倒れ、子供たちはジジババに預かってもらっても、妻の面倒は僕が見なければならないハメになったのもこの頃です。 フレックス勤務でで、朝遅く出勤し、夜も遅くまで働くことが前提の僕の仕事&生活は、大きな変更を強いられました。 朝晩食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、洗濯物を畳む。 規則正しい生活ですが、仕事は遅れに遅れ、不安ばかりが募りました。

ホームグループのミーティングも、病院でのミーティングも、AAメンバーは僕一人という状態がやってきました。 たまたま顔を出したメンバーに、何とか頼み込んでチェアマンを引き受けてもらったのですが、かえって彼の足をミーティングから遠ざけるだけに終わりました(いや、体調が悪いという彼の言葉を信じるべきですが)。

そんな中でも、病院からミーティングに定期的に出てきてくれる人が現れ、退院後もそれが続き、なんとかミーティングの形を取り戻していったのは、僕にとって見れば救いの神の出現に等しい気持ちがしました。

さて、昼間の教会での会場には、会場費と冬場の暖房費として月に1,000円支払うことにしていました。 会場を閉めることになるかもしれない、という話は伝えておいたものの、年明け後にそれを支払いに出向くのを、僕は先延ばしにしていました。 正式に終了を伝え、2年半にわたって会場を借りた礼を言わねばと思いながら、日々が過ぎていきました。

ちょうどその会場は地区委員会でも使っていたので、委員会も別の場所に移ることになりました。最後の委員会が終わった後に、牧師館を訪ね、礼を伝えようとしたのですが、あいにく牧師さんは不在で、お子さんに「お父さんによろしく伝えてください」と言うのが精一杯でした。

僕の心も疲れがたまっていったのは確かです。 もはや自分ひとりで、ふたつも会場は支えきれない。 だから、病院でのミーティングを、数を減らすか、止めるかさせてください。 そんな話を始めたのもその頃です。 一旦は病院側と「止める」という合意をし、でも 「止めるのは、もったいない」 ということで、隣のグループの仲間が半分負担して続けることになり、二転三転して周囲を戸惑わせたものの、ともかく病院でのミーティングは続けることができました。

春になり、僕は妻の面倒を見るのもギブアップし、義父母に (すでに預かってもらっている孫に加えて) 妻の面倒も頼み、遅れた仕事を取り戻そうと、必死で働き出しました。 家へは寝に帰るだけで、ミーティングに行っている時間が最もリラックスできる時間であり、それが終わるとまた職場に戻って働く日々が続きました。
ゴールデンウィーク明けには、仕事はなんとか納品可能な状態となり、仕事の成果は大きな木枠に梱包されて成田空港へと運ばれていきました。 僕は、すこし人数の増えたミーティングを、隣のグループの女性メンバーにお願いして、台北にしばらく滞在することになりました。 AAの無い国。 AAの無い首都。 いや、探せばどこかにAAの人はいるのかもしれませんが、たぶん知らない方向へ歩み出せば、ホテルに帰る事すらできなくなるでしょう。 スポンシーが国際電話で、しかも携帯に電話をかけてきたのが、唯一のAAとの接点でした。

台湾滞在中は、仕事はハードでしたが、日本にいたときに比べれば、体も心も少しずつ休まっていく日々でした。 それでも、言葉の通じない生活はしんどく、日本に帰れる日を心待ちにしていたのです。 帰っても、別のさらに遅れている仕事が待っているだけだと知っていても、帰れる日を待ち焦がれました。

さて明日は帰国という日、まったく自分には関係の無い技術的な問題で、帰国を先延ばしにされるとは夢にも思いませんでした。 ともかく、自分の範疇に問題はないのだから、最悪でも自分だけは帰れるだろうと踏んでいたのですが・・・、まさか問題の原因が全て僕の身になすりつけられているとは、思いもしませんでした。 その事実を知ったとき、僕の心に芽生えた感情は 「復讐」 でした。 慎重に考えられた計画は功を奏し、「責任なすりつけ」の犯人の信用は(一時的でしたが)失墜し、彼が目論んでいた「次の大きな発注」は別の会社へと流れてゆきました。
「ざまあみろ」 と心の中で快哉を叫んだ僕でしたが、帰国後も 「その人物とは別件で、あと数ヶ月は一緒に働かなくてはならない」 という事実は、何ら僕の行動のブレーキにはならず、恨みの感情の奥に慎重に隠されてしまいました。

当然のことですが、帰国後の僕は、深刻な人間関係の問題に直面することになります。 さらに、遅れに遅れた (でも公には進んでいることになっている) 仕事、肉体的疲労の蓄積、緊張による下痢、そして決定打は 「抑うつ状態」。 いまさらあがいてみたところで、何か問題が解決するわけじゃなし、何とか診断書を主治医に書いてもらって、一週間だけ病気休暇を取ろうと目論みました。 診察の中で、軽い気持ちで 「いやあ、このまんまだと飲んじゃうかもしれませんよ」 とひとこと言ったために、診断書は(僕は読んでないんですが)「生死に関わる状態にあり、即刻療養のための長期休暇を与えなければ・・・」 という脅迫状めいたものになってしまったようです。

文字通り即刻、休暇となりました。こうして、僕の長い夏休みが始まったのです。 最初は、数週間精神科に入院するかという話もありまして、家族もそれを覚悟したようですが、「本当に飲みそうだったのか」 という主治医の問いに対し、「まあ、若干比ゆ的な表現も混じっていたかもしれません」 と答えたおかげで、自宅療養ということになりました。 「アル中のあなたが 『飲むかもしれない』 というから、生命の危険があるという診断書を書いたんだよ」 と苦笑されました。
ミーティングで会う仲間たちは、僕の顔が少しずつ表情を取り戻している、と言ってくれました。 それでかえって自分の状態の深刻さ知ったのでした。

ここまでの数ヶ月間の中で、(そういえば、昼間のあの会場を閉鎖した届けを出していないような・・・)、そんなことを思い出して、各オフィスへ 「会場閉鎖のお知らせ」 を送ることにしました。それがいったい、どの時点だったのか、これもぼんやりとした記憶の中に沈んでいます。

ただ、憶えているのは 「お知らせ」 をタイプしながら、別の会場が開かれたときに聞いた、仲間の言葉を思い出していたことです。

「もし、この会場にハイヤーパワーがあれば(いれば)、この会場はつぶれずに続いていくだろうし、ハイヤーパワーがいなければ潰れちゃうんですよ」

あの、クリニックでのミーティングにはハイヤーパワーがいたんでしょうね、そして昼間の教会でのミーティングにはいなかった。 なぜいなかったのか?

「有意義なことは何もしないように」 という主治医の指示に従って、ただ日々をだらだらと送くる日々の中で、そんなことを考えても、その問いに答えられるのが自分しかいない以上、自省以上のものは得られません。 ただ、新グループの話を出した段階で、ホームグループへの出席を止めていたら、何らかの違った結果が得られたかもしれない、という考えだけは、なかなか僕の頭を離れませんでした。

さて、ちょうど東京で子供たちの夏休みが終わる頃、社命によって職場復帰した僕を待ち受けていたのは、僕がいなくても 「なんとかなっちゃった」 仕事でした。もちろん仕事は大変遅れていたのですが、同僚には 「彼が過労でうつ病で倒れたせいで、何もわかんないんですよ」と いう立派な言い訳が与えられ、遅延そのものを責める雰囲気はなくなっていました。また、「何でも仕切りたがり屋」 のくせに 「面倒くさがり屋」 が不在のおかげで、皆が実力を発揮(もしくは獲得)してくれて頼もしい限りでした。

実は、台北にある機械には、僕の責任の不具合も 「ちゃんと」 存在していて、その修正のためにふたたび訪台した事実も付け加えておかなくてはなりません。   人の仕事のあら捜しなどをしているヒマがあったら、自分の仕事に取り組んだほうが、よほど建設的な結果を生んだはずです。

当然2ヵ月半仕事はしてないので、傷病手当の支給ぶんだけしか収入はないし、夏のボーナスも 「一応」 という額になっちゃいました。 おかげで家計は一気に苦しくなったんですが、まあ命があって、飲まないでいるんだから、それ以上望まないことにしましょう。

一方、まったく改善されていない問題も残されていました。僕が 「復讐」 を果たした人物との人間関係です。 もはや「協調」とか「和解」とかいう言葉の入り込む余地はどこにもありません。 とても大人同士がするとは思えない 「子供同然の口喧嘩」 が繰り返されるだけです。 幸い、日常的に顔を合わせる必要がなく、常時その問題に悩まされているわけじゃありませんでしたが、どうしても、その人のことを思い出すたびに、はらわたが煮え繰り返るような感情が湧き上がってくるのでした。
さらにそれが、会社間での金銭的トラブル(とは大げさだけど)に発展すると、もはや自分の心の中から、その人のことを追い出すことが出来なくなってしまったのです。

スポンサーに 「アルコホーリクでなくとも、霊的な病気の人はいるものだ。 私たちは、病気の人に接する態度で、その人に接しなくてはならない」 とビッグブックの一節を教えてもらったことがあります。
たしかに、その人に 「霊的な病気」 の部分があることは、(たとえ僕以外の人がスピリチャリティについて知らなくとも)誰しもが認めることでした。

でも、今回のことは原因はそれだけじゃなくて、僕の 「復讐」 にあったのも事実です。それが僕の悩みを深くしました。 そんなときに、BOX-916に掲載されていた、文章に出会いました。英語版第3版の個人の物語からの引用したものです。 もう、細かな文章は忘れました。覚えているところだけ。

「その人のために祈りなさい。あなたが自分で欲しいと思っているもの全てが、その人に与えられるよう、祈りなさい。 例えそれが、最初は本当に口先だけの祈りだとしても、ともかく二週間続けて見なさい」

僕の欲しいと思っているもの。

 (書いていて恥ずかしくなるぐらい物質的だなぁ)
はたして、彼がそんなものを望んでいるかどうか、そんなことは判らないけれど、僕が欲しいと思っているものが、彼に無条件で与えられることを想像してみました。 憎たらしかった

もう一度考えてみました。 もし僕が彼だったら、大喜びでしょう (ほんとうに上記のもので幸せが得られるかという話は別ですよ、欲望という面で)。彼が幸せになっても、僕は彼を羨ましいとは思わなくなりました。
彼が幸せになるかどうかは、僕の人生には関係がない、と割り切ることにしました。
積極的に 「彼に幸せになって欲しい」 とは思えませんが、ともかく 「誰が幸せになったってかまわない」 という気持ちにはたどり着けました。

どうやら、また僕はAAに救われたようです。

年末に次の仕事の話で、ふたたび台北を訪れました。 当然受注を逃した 「その人」 は居合わせないので、「その人」 の悪口ばかりになりました。 まあ、僕も勝手なことは言いっぱなしでした。 でも、商社の人には、今後も 「その人」 の商品を取り扱わねばならない人もいるのです。 僕は別に気を利かしたわけじゃありませんが、「まあ、そうは言っても、あの人の○○の技術は認めざるを得ませんよ」 という言葉を挟みました。 話題はその技術の方面へと展開し、酔った彼らの話は拡散していきました。

後日、その商社の人が 「××君は、ほんとうに好青年ですねぇ」 と僕のことを誉めていた、と伝えられました。 人生ハーフタイムの人間に 「好青年」 はあったもんじゃありませんが、僕はどちらかというとその人に迷惑をかけたほうが多いので、なぜそんなヨイショをしてくれるのか理解できませんでした。 唯一思い当たるフシは、あの時、皆が 「その人」 の悪口を言っているときに、「その人」 の立場にも立たねばならない商社の人の胸のうちを察して、話題の転換をしてくれたこと、そしてあれほど憎しみあった相手もプラスに評価できる。そんな人間だと勘違いされたのかなぁ、と思います。 もちろん、僕はそんな高潔な人間じゃありませんし、その言葉もたまたま発されたにすぎません。

でも、人間関係はゼロサムゲームとは違います。 例えば麻雀というゲームでは、誰かがプラスになれば、他の誰かがそのぶんマイナスになるよう、ルールが決められています。 勝者がいれば必ず敗者がいる。 でも、人間関係は win-win シチュエーション たりうるのです。 勝ち負けではなく、お互いが勝者になれる局面もありうるのです。

僕があの 「責任なすりつけ」 の罪に未だに恨みを抱いていたら、勘違いにしても 「好青年」 という評価を貰うなんてことはなかったでしょうね。

さて、話を元の元の元に戻して、「どうしてグループはあんなに早く崩壊したのか」。

いくつか思い当たるフシはあります。 男と女の問題。 パワーゲーム。 飲んだ仲間に対して示さねばならない、本当の愛情の不足。 グループの危機に関する無関心。 自分がやらなくても、最後は誰かが責任を果たしてくれるという甘え。 などなど。 でも、中でも最悪なのは、

「みんなのグループ」 になったと宣言し、グループが(何でも仕切りたがり屋の)ファウンダーから精神的に独立をはたすことを喜ぶ発言をしておきながら、結局のところ、心の奥底では、僕はグループの自立を望んでいなかったことでしょう。

今、ホームグループは少しずつ人数も取り戻しつつあります。 病院に関する新グループも、別のメンバーによって、ゆっくりと地歩が築かれつつある状態です(先のことはわかりませんが)。 昼間のミーティングを死守してくれていた彼は、AAとは惜別してしまいましたが、後に第一子の誕生を伝える葉書がやってきました。

果たして僕は、いや今ふたたび複数となった僕らは、同じ過ちを繰り返すのでしょうか。 それとも、何らかの教訓を学び取って、成長をとげられるのでしょうか。

「AAに失敗はない」 と人は言います。 それは、失敗の経験が伝達され、共有されることが前提の言葉です。 僕は、ますますAAから離れ難くなってしまいました。

ふたつの会場に関する、長い長い文脈の末尾に立って、後ろを振り返りつつ僕が感じたことは、時間が経過とともに記憶が薄れていってしまう前に、なるべく多くのことを書き留め、残しておく必要でした。
そんなわけで、この文章は、ここに存在しているわけです。

混乱の中にあって、僕の出張のたびに、ミーティングを預かっていただいた隣のグループのM女史に、感謝の言葉を残しておきたいと思います。ありがとう。

(この項終わり)