心の家路
生きていくことが、どうにもならない

My life had became unmanageable.

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2004-05-11 

僕の一回目の会社員としての生活の、最後の頃の話。

なぜ会社員になったのか、ハッキリ言って自分でもよく判っていませんでした。
確かに、大学の卒業は絶望的になっていました。 大学は8年在学できますし、当時は 「退学勧告」 なんてことも言いませんでしたから、「もう一度新入生になった気持ちでやり直せれば」 卒業も不可能ではありませんでした。 例を挙げれば、僕の親しい友人も、アルバイトのプログラマー稼業から足を洗って、学校に戻りその後卒業を成し遂げています。 また、僕に文章を書くことや翻訳の楽しさを教えてくれた先輩も、8年在学していました。

でも、僕は自主退学をするという道を選ばざるを得ませんでした。

何と言っても、朝8時50分の授業に間に合うように、しらふで起きることがだんだん難しくなっていたからです。 それに、学業に対するアパシー(無気力)が僕を捉えており、アルバイト稼業で食っていけるなら、「学生という特権的な身分」を捨てることに未練はありませんでした。 ただ、先祖代々の土地を売ってまで、僕を東京の大学へまで行かせてくれた両親に、「中退後も自由稼業をする」 とは、とても言いだせませんでした。 「アルバイト先の会社に正社員として雇ってもらう」 と口先だけの約束をして、涙に暮れる母親と、疲れた表情の父親を、送り返した後、やれやれとドライ・ジンを飲み、「今の生活がいつまでも続けられるわけじゃない」 という不安と、「今の生活から脱出する」ことへの恐れ を、自分の中から消し去ることに、やっきになっていました。

仕事があるからと、アルバイト先に呼び出されたときに、社長から 「実は君のお母さんから電話があって」 と切り出され、「正社員になるという君の希望があるなら」 と尋ねられました。 そのとき、(あれはその場しのぎの方便というやつで) と正直に言える自分なら良かったのでしょうが、思わず 「ご厄介になります」 と答えた自分が後々まで恨めしかったです。 なぜなら、その答え自体も 「その場しのぎの方便」 だったからです。 しかし、その日のうちに歓迎会が開かれ、同じアルバイトのA君と一緒に、採用されることになりました。

大学を退学するのは意外と煩雑でした。 もちろん学費を納めなければ放校ということになるのでしょうが、その場合には、保証人をしてもらっている叔父にまで中退の事実がばれてしまいます。 なんとか、自主退学をするためには、「学業を続けられない理由」 を申告する必要がありました。 一人の大学生のために、国がつぎ込んでいる税金は百万単位であり、本人(の親)が納めている学費など、それに比べればいかほどでもありません。 「嫌になったから」 という勝手な理由で辞められてしまっては、税金の無駄遣いとなるわけです。
酒臭い息で、学生課の職員と話し合い、「就職のため」 という理由で無理に退学願いを提出しました。 「例え卒業しなくとも、国の産業のために役立ってくれれば、税金の無駄にはならない。がんばりたまえ」 と励まされ、「もちろんがんばります」 と答えたのも、単なる見栄でした。

退学許可証が書留郵便で届いたのは、僕が正社員になったのを後悔し始めていた頃でした。 8時50分に歩いていける距離の学校に行けない人間が、電車に揺られて定時に出社できるはずもありません。 しかも、寝過ごしているわけでもなく、ドライ・ジンの入ったグラスを片手に、時計と睨めっこを続け、6時・7時・8時と朝の時間の過ぎていくのを、なんとも言えない不安な気分で過ごしているのです。
酔ったままでは出社はできない。 しかし、無断欠勤はまずい。こんなことにならないよう、今夜こそは飲み過ぎないようにしよう、と毎日誓いながら、翌朝も同じ事の繰り返しです。 「酔っていても、遅刻して夕方でも、ともかく一日に一回は会社に来い」と言われながら、しまいには、それすらも出来くなっていました。

ちょうどその頃、高校のときに同級生で、同じように東京の大学へ行き、中退してフリーランスのプログラマーをやっている友人がいました。 彼とは、学生時代に何度か一緒に仕事をした仲でした。 彼は、その点では成功を収めていました。 そこで、あるプロジェクトを共同で行ったときに、金の無かった僕は、必要なパソコンの購入費を彼に無心しました。 成功報酬の中から、その額を彼に振り分けることを条件に、彼は承諾してくれました。 しかし残念なことに、プロジェクトは立ち消えとなり、彼への借金だけが残りました。 僕はその後、何度かまとまった額の収入を得たことがあったのですが、彼に数十万の借金を返す前に、自分の欲望のためにそれを使ってしまっていました。 幸い彼の成功が大きかったために、無理な催促を受けることはありませんでしたが、その事実は僕の心の中に暗い影となって、いつも存在していました。
また、彼のフリーランサーとしての成功が、僕にはしゃくにさわる事実でした。 (あいつにできて俺に出来ないはずが無い) という思いと、(自分は何かにきちっと管理されなければ、生活すらままならないのだ) という現実が、頭の中で一晩に幾たびも交差するのでした。

何がそれを決意させたのか、酔った頭では記憶していないのですが、「辞めます」 と電話で言ったきり、出社拒否を決め込んだのは、退学&就職の12ヶ月後でした。 親しい先輩や後輩のいる会社をこうした形でやめるのは、僕の交友関係を大きく傷つけるわけですが、それも思い返せば 「正社員になる」 という親へのウソを否定できなかった結果でもありました。
「来月末で解雇する」 という連絡が来て、国民健康保険のために市役所へ、年金関係のために社会保険事務所へ、失業保険のために職業安定所に行け、と親切な手紙が同封されていましたが、どこへも行きませんでした。 運転免許を持っていない自分は、身分を証明するものが何もない状態となりました。 健康保険の手続きすらしなかったため、保険証が無く、その後の何年間か自分でも「自分の体(と頭も多分)おかしい」 と感じながら、医者へ行けない理由にもなっていたのでした。

まだ、解雇まで何日かある日のことでした。 「会社を辞めたので、フリーランスで食っていきたい、相談に乗ってくれないか」 と、先のフリーランサーの友人のところへ電話をかけました。
ともかく会おうということになり、環状七号線のすぐ近くの彼のアパートまで、その後の相談をしに行きました。 ありがたいことに、彼の抱えている仕事の一部を分けてもらう話になり、残る問題は、その収入が入るまで、僕が食っていける金があるかどうか という点だけでした。 実際、僕の銀行口座の残高は、とても 「会社を辞める」 と言い出せるような状況じゃなかったのですが、彼に新たな借金を頼む勇気もなく、その点はあいまいなまま口を濁してしまいました (この自分の不正直さも、もちろん数ヵ月後にはトラブルを生むのですが)。

赤羽線の駅の近くの餃子屋さんで、旗揚げの飲み会を二人ですることにしました。 飲んだのはビール数本で、時間もまだ早く、家路に何も問題はないはずでした。
駅前で彼と高校の応援歌を歌い、なんとなく気分が大きくなって理由もなく安堵感に溺れていました。

新宿へ向かい、京王帝都電鉄に乗り換えて調布まで、というのが僕の帰路です。
池袋で山手線に乗り換えるつもりでしたが、できたばかりの埼京線のホームに電車が止まっていたので、思わず飛び乗りました。 多くの人は池袋で降りてしまい、終着新宿への乗客は僅かでした。 「座って眠ってしまったらまずいな」 と思いながら、ひとりポツンと立っているのもバカバカしいと思って、シートにもたれました。

気が付くと、電車は長い鉄橋を渡っているようでした。 「次は川越・川越。終着です。折り返しの電車はありません」 というアナウンスを聞いて、何が起こったのか理解しました。 新宿へ向かう途中で寝てしまい、そのまま反対方向へと来てしまったのです。 おそらくその間に、新宿・川越間を一往復ぐらいしているのかもしれません。 見知らぬ埼玉の県内まで連れてこられたわけです。 山手線に乗っていたなら・・・、いや埼京線でも座らずに立っていたら・・・、後悔ばかりが心を占めました。

さて、僕は困った事態へと追い込まれました。 財布に残したお金は、調布へ帰り着くまで最低限の額でした。餃子屋で、財布を見ながらビールの追加を頼んでいたのです。 それが、川越までの乗り越し料金を払ってしまうと、もはや帰る切符を買うお金は残っていないのです。
乗り越し料金を払うと、帰れないんだ」 と酔っ払いの論理で訴えてみても、駅員は取り合ってはくれません。 「あなたがここまで電車に乗ってきたのは事実なんだから」 と言われれば、反論のしようがありません。 仕方なく払って外に出ると、同じように終着駅まで乗り過ごした酔っ払いたちが、駅のベンチに寝そべっています。 しかし、僕は、始発電車よりさらに先の、朝9時に銀行が開くまで、帰る手段はないのです。

僕は、埼京線がいったいどこまで行っているのか、知りませんでした。 川越がいったいどこなのかも、まったく知らないのです。 もし、所沢の北だと知っていたら、この後の愚行はなかったかもしれません。

今まで酔っ払って終電を逃したことは何度もありました。 たいていは知った場所でしたから、始発電車が出るまでの間、線路沿いに歩いて時間を潰すのが常でした。(10Kmぐらいなら無理なく歩ける)そんな自信がありました。

「この場所で朝9時まで待つなんて耐えられない」

そう思って歩き始めました。

(本当に線路沿いに歩くのは得策でない) という経験則がありました。 先ほど鉄橋を渡ったばかりです。 鉄橋を人は通れず、鉄橋は人の通れる道路とは離れている場合がままあります。 それに、うろ覚えの知識でも、埼京線は西に向かって延びており、それを逆に東に辿るのは、方向が違うのだということは判りました。 夜空の星で方向を確かめ、南に向かって歩き始めました。

数十分後、すでに後悔が始まっていました。 日頃の強い酒の連続で、肝臓は数本のビールで泥酔するまで弱っていました。 知った駅のホームに隠れて始発を待つという手段も取れません。 なにしろ、駅へ戻る方角すら見失っているのですから。
小学校を見つけ、グラウンドの脇の駐輪場に、十数台の自転車が置かれているのを見つけました。 ママチャリのひとつに、鍵がついていないのを見つけました。 罪悪感などまるでなしに、それに乗って 「」 と目される方向へ走り出しました。

犯罪をしている という意識はありました。 そのため、なるべく細い道を選んで走っていました。 そのうち大胆になって、広い国道 (おそらくは川越街道) を南下し、また怖くなってわき道へそれたりしました。 東武東上線の駅に出くわしました。 池袋まで行く線であることは知っていました。 JRよりは私鉄のほうが安いはずです。 このまま東上線沿いに池袋に向かい、財布の額が運賃を上回ったところで朝を待つ、という計画が頭に浮かびました。 どう考えてもそれが 最善の策 です。 地理も知らず、地図も無い人間が、知らない土地を無事に走りおおせるはずもありません。
しかし、酔った体で運動を続けた頭脳には、大量のアルコールが循環していたようで、「このまま調布まで行ってやるんだ」 というバカバカしいアイデアに支配されていました。

(先ほど、地図で計ってみましたら、川越から調布まで直線距離で約28Kmあります。
 これだけでいかに馬鹿げたアイデアか判るというものです)。

進路を南に取り、大胆になった自分は、比較的大きな道路を走っていきました。 「東京都練馬区」 の看板を見たときは、なんだかちょっとほっとしました。 さてそこで、赤信号の交差点の向かいの角に、交番がありました。 車も何も通らない深夜、赤信号を待つのも不自然です、かといって信号無視しても、交番の前に立っている警官の注意を受けそうです。

(まずい事態になったな)

内心そう思いながら、青信号になって、交番の前を何気なく通り過ぎようとしました。 案の定呼び止められました。 身分証明書もなく、名刺も無く、しかも本人の言う住所とはかけ離れた場所。 うさん臭くないはずがありません。
仕方なく作り話を考えました。 「川越にある先輩の家に麻雀に誘われて行った。 しかし負けが込んでしまい、全財産を捲り上げられた。 帰る電車賃が無いというと、奥さんの自転車がいらなくなったから、これに乗って調布まで帰れと言われた」 という話なのですが、その先輩の名前はともかく、電話番号すら言えないのです。 警官二人にみっちり尋問されました。

十数分後だったでしょうか、パトカーが到着し、騒がしい一団が交番内に入ってきました。 どうやらケンカによる傷害事件があったようで、双方とも連れて来られたようでした。

「お前さん、自転車泥棒だろう。 どうやら、これから忙しくなりそうなんで、お前さんみたいなのに、ゆっくり手間かけていられねえんだ。 どうだろう、素直に言ってもらえりゃ、こっちだって悪い気はしない」

と諭され、酔って埼京線を乗り過ごし、川越から調布まで帰ろうとして、カギのついてない自転車を見つけて乗ってきたのだ」 と答えると、それが紙に書かれ、署名と捺印を求められました。
微罪処分とする」 と宣告が下されました。 帰る手段が無かった点、初犯であること、酔った上での行為である事、自白など、情状を酌量すべき点も多いため、と理由を説明され、薄っぺらい紙に書かれた書類に名前を書かされ、べろんと親指全体の指紋を取られました。 ともかく、これでお咎めなしで済むようです。
「立派な窃盗なんだぞ、川越まで自転車を返しに行く身にもなってくれ」 と苦情を言われました。

困ったのは身元引受人です。 誰かが来てくれないと、一人では開放してくれないのです。 両親は長野ですから、連絡しても来るのは午後になります。 アパートの大家は老人であるし、距離もあります。 会社はもうすぐ退職だというし、朝にならないと連絡が取れません。 仕方なしに、一緒にビールを飲んだ友人に来てもらうことにしました。 夜更けに突然たたき起こされ、タクシーで練馬まで迎えに来てくれた友人は、決して同情などしてくれませんでした。
彼のアパートで昼まで寝て、たいした詫びも言わずに、帰路につきました。 もちろん、帰宅後すぐに飲んだくれたのは言うまでもありません。

その後、彼の仕事が入ってくる前に貯金が底をついた僕は、アドバンス(前金)の貰える仕事に手を出してしまい、それが泥沼に陥ったおかげで、彼の仕事はろくに出来ず、彼に大変な損失を与えてしまいました。 「お前とは絶交する。貸した金は可能な限り早く返すように」 という手紙が来たのは、半年後でした。 しかたなく、親に頼んで金を用意してもらうのですが、そこでも 金額を正直に言えず、借金の一部は残ったままとなってしまいました。

また泥沼のプロジェクトから逃げ出すために、雀荘に入り浸り、そうでなければアパートで飲んだくれていました。 四週間連続という最長の連続飲酒をし、禁断症状が激しくなったのもその頃でした。

後の収入の中から、10万円だけ、迷惑をかけた彼の口座に振り込み、「残りもなるべく早く返す」 と手紙を書きました。 返ってきた返事は 「金は要らない。もう二度と関わりたくない」 という簡素なものでした。

その後の数年間、飲んだくれのフリーランサーとして、いろんな人に迷惑をかけつづけました。 満足に仕事をさせるには、マンションの一室に缶詰にして、仕事が完成するまで、食事以外は外出させない必要がありました。 禁断症状で歯をガチガチ言わせながら、「もうこんな目にはあうまい」 と決意するのですが、毎度同じ事の繰り返しです。
テレビもラジオもなく、パソコン通信の時事ニュース短信だけが、世間とのつながりでした。
数日から数週間ほどで仕事が上がり、アパートへ帰る頃には、体は疲れきっています。 しかし、頭は比較的しらふなのです。 酒ビンがごろごろ転がる部屋を見て、「こんな部屋は人間の住む部屋じゃない、ともかく片付けと掃除をしなければ。 そして、この部屋で順調に仕事 をして、缶詰めなんて事態は避けるんだ」 と思うのですが、「ともかく今は疲れてるから、ひさしぶりに一杯飲もう」 と考えて、最初の一杯を口にすると、建設的な考えなどどこかへ吹き飛んでしまい、次の仕事まで、飲んだくれている日々が続くのでした。

ともかく酒を切らなくては、と思うのですが、それは 「今日・この瞬間から」 ではなく、必ず 「明日」 でした。 ところが翌朝目覚めて最初にすることは、まずコップに残った昨夜の飲み残しを口にすることでした。 毎夕、

今日も酒が止められなかった

という無念と諦めに襲われるものの、もはや自分で酒を切る力は失われてしまっていたのです。 泥酔の中、意識が薄れていく中で、(このまま明日の朝目が覚めなければいいのになぁ) とか (東京が火の海にならないかなぁ) とぼんやり思っているのでした。

自分は何かにきちっと管理されなければ、生活すらままならないのだ

この事実を受け入れるのには時間がかかりました。 自転車泥棒から約5年後、精神病院へ入院となりました。 入院中は規則正しく、酒も不要に生きていけます。 しかし、退院すると、もとの生活に戻ってしまうのです。

二度目の入院のときに、入院生活の閉塞感を訴える患者に、「そうじゃなくて、ここに居ると、何かに守られている気がするんだ」 と言ったことを覚えています。 確かに、病院で管理された生活を送っていると、お酒は要りません。 でも、外に出ると自分で自分は管理できなくて、酒で生活が崩れてしまうのです。

三度目の入院の時には、「どうやらアル中とはそうしたもの」 だと判ってきました。

病院の外で暮らしたい。 でも、そうするためには、何かに管理してもらわないといけない。 でも、僕を管理できる存在なんて、この世の中にはありっこないのです。

AAを知り、ステップ1の 「生きていくことがどうにもならない」 ことが、unmanageable だと知ったときに、「僕には自己管理能力が無いのです」 とミーティングで言ったことを思い出します。

外の世界で生きていくために、僕は僕をマネジメントできる存在が必要でした。 そんな存在はありっこないと考えていましたし、求めもしませんでした。 AAで、「神」 とか 「ハイヤー・パワー」 という言葉を聞いたときには、正直滑稽に感じました。

でも、もう一度AAにつながって、ともかくAAで酒を止めてもらおうとしながら、何年かたちました。 今では僕は、僕のマネージャーに 「神さま」 という名前をつけて、できるだけその指示に従って生きていこうと考えています。 運の悪いことにマネージャーには口が無いので、その指示を聞き取るのは難しいのですが、ミーティングや普段の生活の中で、人々の声を聞いていると、その中にはちゃんと答えが用意されているようなのです。
僕はどうやら出来の悪いほうで、なかなか素直にマネージャーの言うことがきけないのですが・・・。

現在は、多少は日本の産業の役に立っているような気もします(足を引っ張っているというほうが多いかも)。 しかし、たっぷり稼いで所得税で在学中の投資へのお返しをできるほどではありません。 まあ、若いうちに酒税でたくさん収めましたので、それで勘弁していただきたいところです。

(この項終わり)