心の家路
僕の嫌いな人々 〜ステップ4・5への序章〜

Make a moral inventory of myself.

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2004-06-21 

先日実家によって、母に夕食を食べさせてもらっているとき、僕の仕事について話をしていました。

僕は会社員ですが、零細企業の収支状態は悪化するばかりで、未来に明るい兆しは見えません。がんばって仕事をしてみても、結果は報酬には反映されず、たとえ儲かっても会社の借金の返済に宛てられるだけです。経営者夫妻が大変な努力をしているのは、もちろん知っています。でも、誰にでも年齢の限界というものはあり、大きな借金を抱えた会社を継ごうという人間がいない以上、いつかは僕はこの職場から離れる運命にあります。もしかしたらそれは、給料不払いという形で、今月末にもやってくるのかもしれません。

僕は中年ですから、新しい職を探すのは難しいでしょう。手に職は持っているものの、自分はアルコホーリクであり、うつ病者であり、その両方にケアが欠かせません。そうした事情を理解し、配慮してくれて、なおかつ最低限必要な報酬を支払ってもらえる会社は(探す努力はもちろんしますが)、おそらく見つからないだろうと思います。
僕の職業の多くの人と同じように、中年になって職を失ったら、あとは個人事業主としてやっていくしか道はないだろうと思っています。せっかちな自分のことですから、いま自発的に会社を辞めてしまったほうが、後々に有利なのではないかと考えたりします。

しかし家計を預かる妻や、実家の母は、「給料が出ている間は今の会社にいたほうがいい」と言います。僕もそれはそのとおりだと思います。過去にフリーランスで働いた経験があるとはいえ、このご時世で僕が個人事業主として食っていける能力があるとは限りません。
「会社に留まる」ということは、理性的な判断として、自分自身受け入れているつもりです。けれど、それで未来に対する不安が消えてなくなるわけではありません。それは何を隠そう、自分自身の能力に対する不安であります。

母が僕の仕事のことを心配してくれているのは分かっているので、最近の仕事ぶりについて、食事をしながら話をしていました。そして母が、文脈とは関係なく

「でもお前、給料が出ている間は今の会社にいたほうがいいよ」

と言った言葉に僕は敏感に反応してしまいました。その言葉に間違いはありません。でも、真実は時に人を傷つけます。僕は口を荒げることもなく、ただ食事が終わると早々に帰ってしまいました。

その言葉は僕の中にいろいろな感情を起こさせました。単純に言えば「傷つけられた痛みと怒り」です。それが呼び起こしたものは、自分自身の能力に対する自己信頼の欠如であり、現在の状況に対する感謝の欠如であり、望んだとおりの結果が出なくても受け入れる能力の欠如であり、望んだものではなく必要なものが与えられるという信仰の欠如です。すべてそれは自分の内側の問題であり、母に責任があるわけではありません。

でも僕は、真実だけを言うのではなく、その言葉を何かの優しさで包んで出して欲しかったのです。
思えば母は優しさで包むことが苦手な人でした。僕の妻にも「あなたは婿養子をもらってよかった。そんなんじゃ、嫁に行ったらやっていけなかったよ」と言って、確執を招いた人です。他の家に嫁に行ってもやっていけないだろうとは、妻も認めている事実です。でも、それは言ってはいけない言葉、少なくとも優しさで包んであげなくてはいけない言葉です。

そして母の姿は僕の姿でもあります。兄は父に似、僕は母に似たとよく言われます。体の弱いところも、朝の苦手なところも、肩がこるところも、そして性格もよく似ています。母を嫌うということは、自分を嫌うということであります。母を憎むということは、自分を憎むということであります。
僕は、母という鏡に映った自分の姿を、嫌ったり、憎んだりしているのです。

僕は、自分で真実だと思ったことを、真実だからという理由で人に押し付ける人間です。そこに優しさや思いやりを忘れることはしばしばです。でも真実だから仕方ないと開き直ってしまいます。でも結局は自己信頼の欠如という形で、ブーメランは僕のところへ戻ってきて僕を傷つけます。


僕はあるAAメンバー(男性)が気に食わずに仕方ありませんでした。

他のあるメンバーの導きを受けながら、僕は彼の何が気に入らないのか点検していきました。
「彼が僕に何をしたのか? 彼が僕の何を傷つけたのか?」

彼が僕を直接傷つけているわけではありません。ただ、僕が気に入らないのは、彼が知ったかぶりをすることでした(真実は違うかもしれません。でも僕にはそう思えたのです)。

たとえば「アメリカのAAではこうである」という話を例にあげましょう。

実は僕も同じことをやっていました。「アメリカのAAはこうである」という権威を振りかざしては、他の人々を閉口させていました。でもそれは、ある時に手痛い反撃を食らうことになります。

「あなたはアメリカに行ったことはあるのか?」

僕はハワイにすら行ったことがありません。

「では、どこで誰からその話を聞いたのか?」

誰にも聞いてはいません。ただ僕が、他の様々な情報から「アメリカのAAはこうであるに違いない」と自分で思っただけの話です。その想像はおおよそにおいて間違っていないというのは、僕の過信でしょう。僕は「アメリカのAA」という権威を借りて自分の意見を押し付けていただけの話です。そしてそれは「知ったかぶり」そのものでした。

今でも僕は、「アメリカのAA」という説得材料を使いたいときがあります。でもどうしてもそうしたいときは、きちんとした情報を元にするよう心がけるようになりました。

しかしその修正で、過去の自分の「知ったかぶり」が帳消しになるわけでもありません。それは穴があったら入りたい恥ずかしい過去であります。そして自分と同じ過ち(だろうと僕が思う)を犯している人を見ると嫌悪感が湧き上がるのです。

この知ったかぶりに限らず、僕は過去の自分が許せていないのです。だから、誰かの行動に過去の自分の姿を見ると、つい知らぬうちに嫌悪感で反応してしまうのです。他のAAメンバーが悪いわけでもなんでもないのです。

ここでも僕は、鏡に映った自分の姿に反応しています。


こういう生き方は辛いです。自分は自分の最良の友人でもありますが、最悪の敵でもあります。
僕は自分が自分の敵であることをやめて、自己信頼という基盤の上に成長していきたいです。
自分を憎み嫌悪することを止めなければ、自分を信じ愛することも、他の人を信じ愛することもできはしないのでしょうから。

僕は自分の様々な性格上の欠点を取り除いて欲しいと神に願います。できれば僕が傷つけた人に埋め合わせをしたいと思います。そのためには、まずもう一度ステップ4・5を始めてみないといけません。もちろん完全は無理でしょう。でも「まだ自分が持っていないものは分かち与えることが出来ない」。それもまた真実であります。

なによりも自分のために、楽に生きるために、僕はステップ4をもう一度やってみたいです。「恨んでいる相手」「その理由・相手が自分に何をしたか」「傷つけられたもの」「それについて自分はどうしたいのか」。その表を作って、誰かに話をしたいです。

仲間の提案を受け入れるのに何年もかかりました。しかも、こちらは一日延ばしが得意技ときています。「やろう、やろう、でもやろう」です。
難しい理屈はいりません。表を作るだけの話なのですから。それに、ステップ5の人のあてもあるし。自分自身への叱咤としてここにこの文章を書いておきます。

(この項終わり)